2024/10/15
小学5年生の時に『ポケモン不思議のダンジョン赤の救助隊・青の救助隊』が発売された。俺は水ポケモンが好きで青の救助隊を買おうと決めていた。親に車でGEOまで連れて行ってもらいお年玉を貯めたお金で青の救助隊を買う。帰りの車の中でDSを開き一刻も早くプレイしたかったが、車に乗っている時にゲームをすると酔うからやめときなさいと親に言われていたのでパッケージを触ったり説明書を見たりして車の中で新作ゲームへの高揚をなんとか抑えようとしていたと思う。その時の空は今日と同じような秋晴れで雲一つなく、涼しい風が胸の高鳴りと相反するように体を撫でていたことを覚えている。
KO-VIDEOのBUMPレーベルから『佑介です。』が先日発売された。昨今はデジタル化が進み、音楽や映画などもCDやBlu-rayというパッケージで買うことは少なくインターネットからダウンロード出来るものばかりだ。俺自身もゲームなどはもうパッケージで買うことはなく全てダウンロードで購入しているが、楽しみにしているAVだけは別である。
2005年の秋晴れの日、ゲームを買った帰りに車の中で感じた小学生の俺のワクワクは2024年の秋晴れの日にゲイビデオを買って家へと帰る電車の中の俺へと確かに続いている。この前帰省したらあの時親に連れて行ってもらったGEOはもう潰れてしまっていた。多くの物が時間という不可逆性の中で変わっていったがこの楽しみを待ち望むワクワク感だけは子どもの頃の俺と今の俺で同じ線の上に立っているのだろうという確信がある。
家に帰ってもう使わなくなったPlaystation4にDVDを差し込む。こいつでどれほどのAVを観てきただろうか。ソニーとはポルノの会社である。
KO-VIDEO BUMPレーベル『佑介です。』は「です。」シリーズの待望の4作目ということで表紙を飾るのはあのてらゆうさんだ。再生を待つ間に電車の中では見られなかったパッケージを舐めるように見つめる。表紙にはてらゆうさん(このDVDでは祐介さんとしての出演なので以下は佑介さん表記)、の上裸姿が映っており、瑞々しい…という感想を受ける。瑞々しいとは若々しく美しいものへの形容詞で、佑介さんを形容するには些か不適格というかもう少し似合う言葉がありそうだが、しかし俺はなぜだが瑞々しいと思ったのだ。鍛えられた胸板、上腕、下半身、そしてまるでその全てが計算されたデザインとして存在しているかのように生える胸毛がむしろ画面の華やかさを際立たせているように感じた。画家のルノワールの有名作として『春のブーケ』という作品がある。かの作品は色とりどりの花が花瓶に活けられている姿を描いたものだが、注目すべきは花の美しさではなく花瓶側にある。素焼きのシンプルな花瓶が描かれているのだが、瑞々しい花と花瓶、そのバランス感覚こそが『春のブーケ』という作品を際立たせている要因なのではないかと考えられている。
佑介さんの胸毛は見る者の目を奪う瑞々しい花なのだ。そして胸毛を美しいと感じることを支えているのは佑介さんの鍛えられた肉体であって、このバランス感覚はルノワールの作品に通ずるところがある。それ故に俺は表紙を見て瑞々しいと感じたのだろう。
パッケージを裏返して裏表紙もまた舐めるように見つめる。裏表紙は単純にエロいです。シコり放題。全然関係ない疑問なのだが、あの正常位で掘られながらちんぽ咥えている体勢ってなにか名前付いているのだろうか。俺のような存在にすら名前がついているのにあの体勢に名前がついていないのは絶対におかしいと思うのだが…
そしてDVDが再生される。内容について感想を述べていくと日が暮れるのでほとんどは割愛しようと思うが、かなりエロいです。もうそんだけ。日曜に買ったのだがもう8回シコってます。シコり放題である。
しかし今作の特徴として佑介さんへのインタビューにそれなりの尺を割いている。これは佑介さんが現実世界においても名の知れた人であり、彼の人間性を深く知ることが有益と判断されたからであろう。彼のアイドル性という点に注目し、その点とAVという嚙み合わせの演出をすることは非常に効果的に思えるし、彼独自の強みが色濃く表れた言わば異色的で挑戦的なAVであると言えるだろう。
全編通して佑介さんの人懐っこさというか愛嬌が全面的に表れており、『呪術廻戦』京都姉妹校交流編にてパンダ先輩が虎杖のことを「ありゃ呪術師には珍しい根明だ」と表するのだが、そのセリフが思い出された。AV男優にしては珍しい根明である、という印象を作品全体から感じ、このAVが彼のプロモーションビデオかのような印象すら受けた。これを計算してやっているのだとしたら恐ろしいことである。
昔、佑介さん、もとい「てらゆう」さんの歌っている姿を映像で見たことがあって、かなり古い映像で彼が俺より若いくらいの年齢の頃に撮られたものだったと記憶している。今よりもシュッとした顔立ちでカメラの前で歌う彼の眼には若さ特有の鋭さと誰に向けているわけでもない昏さがあったように思う。彼が成長しこのような一見明るい男となったのだ。アイドルを自称しているのかは分からないし、大変失礼な物言いになり申し訳ないが、あの古い映像のなかの「てらゆう」さんはアイドルではなかったかのように思う。彼は一人の表現者として俺の眼には映ったのだ。
しかし時は経ち再度俺の前にまたもや映像の中で現れた彼はまさにアイドルであった。多くのものが時間という不可逆性の中で変わっていく。俺も秋晴れの思い出の中のままでいる自分もいれば、AVで8回もシコるようになった自分もいる。そして彼も俺が到底知りようもない時間の中で変化をし、きっとアイドルに”成った”のだ。変わり続ける時の中でこのAVに出会えたことに感謝を。
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