2025/02/07

インターネットに日記を公開していると時々「あの時の日記に書いてたことなんだけどさ~」と話題を振られることがある。俺の日記を読んで意見を交わしてくれるのは日記冥利に尽きるのだが問題があって、俺が「そんなこと書いたっけ?」となることだ。
これは単純に俺がご飯を食べる机にちんちんを乗せたりしているようなアホなので忘れているのだが、それを除いた時に思うのは、日記とはその時点での俺の”今”の考えを封じ込めたものであり、だからこそ俺にとっては”過去”なのだが、日記を後から読んだものにとってそれは”今”の俺が言っている(書いている)ことなのだ。
これは星の光と考え方が同じで、今日の夜空に光る星とは過去の星の光だというやつ、2025年2月7日に書いた俺の日記という煌めきを例えば観測者が2025年2月8日に見たとしたら、観測者にとっては2月8日の事象でも俺にとってそれは2月7日に思った煌めきなので、昨日と同じものでシコれない俺はその当時の熱を忘れていることがほとんどなのである。

海外ドラマ『LOST』の中で「全ては相対的なんだ」というセリフがある。相対性原理という物理学の考え方から始まる相対的という捉え方は実に色んなところに応用が出来てしまって、俺のような学のないやつでも「全ては相対的だな~」と思うことが多々ある。日記の閲覧が過去の星の光を観察するようなものだとしたら、時間という概念すらも相対的だな~と思うわけです。時間なんて普遍的に一定で流れるものだと思いがちだが、しかし捉え方を変えると俺の”今”とは精々俺の数メートル周りにいる近くの人間と共有できるものであって、その場にいない人間にとっては俺の今とは後で聞く過去でしかない。今を封じるのが日記とか写真なのだとしたら、書いたことを忘れている俺の日記に一体なんの意味があるのかという悪口が飛んでくることが予想できるが、しかし封じるといってもやはりそれは過去の俺を参照しているに過ぎないわけで、絶対なものなど無い、と言うことが出来る。絶対とされる法律なんかも実はそうで、場所が変われば法律が変わるように(ドラッグとか)全てはなにを基準にするのか?という相対性の中にあり、真実とされるものもそれは他との比較の結果浮かび上がっているに過ぎない。

M-1グランプリ2019のぺこぱのネタにボケのしゅうぺいが突然審査席の方に向き漫才をし始めてしまい、それをツッコミの松陰寺が「おい、相方!…正面が変わったのか?」というものがある。このネタも実は全ては相対的だと言える要素を持っている。普通はサンパチマイクがある方が正面と捉えるが、しかしそれは絶対ではなく実はしゅうぺいが向いた方が正面かもしれないと松陰寺は看破しているのである。サンパチマイクを基準とするかしゅうぺいを基準とするかで世界は相対的に変わってくる。

時間は相対的であるという話に戻すと、全てが相対的であって今の自分の周りの人間にしか”今”を共有できないのだとしたら、実際に会って時間を共有することの美しさに目が向いてくる。すべてが過去になり相対性という比較の中に沈んでいくのだとしたら、今あなたと楽しく話して飲んでちんちんを触りあっちゃったりしている時間はきっと全ての時間軸の中で一層と光り輝き、かけがえのないものかもしれない。

というわけでBar Deppaに7日、8日両日とも出勤しております。"今"を共有しましょう。お金をもらっていますので宣伝しますよ。俺はお金をもらう意味を分かっているつもりです。


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