2024/10/25
親類に対して自分がゲイであることを表明するかどうかは、様々な議論がなされている。どういった立場でものを言うかで意見は様々であって、結局のところ当人におけるメリットとデメリットの釣り合い、カミングアウトすることによって(総合的な)メリットが上回るならば、するという選択肢を取れるし、デメリットの方が大きいならば、しないという選択肢を取るしかない。この”取るしかない”という状況こそが問題である、として社会的に異議を唱えることも必要な価値観ではあると思うが、個人の問題にまでレベルを落としてきた時に、とどのつまりその行動の可否は相対的に判断されるしかないのだ。だからこそ市井では個人の意見が飛び交い、行き先が見えない交差点をそれぞれがそれぞれのやり方で歩くことになっている。
自分の親は自分がゲイであることに勘付いているとは思うが、俺から明確にカミングアウトしたことはない。勘付かれる要因としては俺が『ゴーグルマン乱交』というAVをリビングに置きっぱなしにしたことによる事件に端を発していて、母は確実に『ゴーグルマン乱交』を手に取りそれをリビングの机から俺の部屋の机まで横、または縦の移動をしたと思われるがその一連の行動に母親がなにを思ったかは血を分けた息子である俺から見ても察することは出来ない。『ゴーグルマン乱交』という文字面を見て、(この子はゴーグルが好きなのかしら?)と思ったかもしれないという希望的観測としての可能性を残しつつも、(乱交が好きなのかしら?)と思われたとしても別にそこから俺がゲイであるという事実に結びつくかは、絶対思うだろという断言は出来ないと言うほかない。
無視できない側面として『ゴーグルマン乱交』のパッケージには男しか写っていないことから、これはゲイAVである、と母が断定するかもしれないが、ゲイAVの所持をイコールとして息子がゲイであることに繋げるのか、それを確信として息子にゲイという性質の判子を押すのか。
押すだろ、と思ったかもしれないが人間の心の機微というのは一辺倒に理論的とは言えない側面があって、例えば、我々が思い感じるところの「こころ」という機能はいったいどこを由来としているのか、パッと考えが浮かぶだろうか。
「こころ」は当然、脳が考えることであって脳は物質であって脳とは電気信号の行き来によって機能を果たしていると考えるであろう。そこから三段論法として考えれば、脳=物質、脳=感情(こころ)、つまり感情(こころ)とは物質が発している電流に過ぎないと考えることが出来るが、人間はどうしても最後の「感情(こころ)=物質(の反応)である」という結論を無意識的に封じるところがある。こころは脳とは別で存在していて、心臓の少し右辺り、言い換えれば魂が感情を起こすのだという考えが慣習的なのか情動としてあるのか分からないが、そういう理論的ではない考えを意識せずとも持つのが通常である。
ここで『ゴーグルマン乱交』の話へと戻ると、恐らくゲイと関わらず生きてきた母にとって、言ってしまえばゲイを理解し得ない母という存在において、『ゴーグルマン乱交』発見からの横、または縦の移動が息子をゲイと結論付ける決定的な三段論法の要因となるかは、理論的ではない人間の感情という要素を含めて考えれば甚だ疑問が残るとしか言いようがない。
証拠として先日、母は雑談の中で「女の子とは結婚しないの?(原文ママ)」と聞いてきた。それに俺が「しないよ。世の女性は俺の事を気持ち悪がるばかり」と答えたら「病院に行きなさい」という返事が来た。果たして医療に女性が嫌がる俺のキモさを治せるかどうか。反精神医学論として精神の逸脱を医療に託すことの是非が問われていたのは既に昔の事だが、精神が未熟であるが故の逆張りからくるキモさの修正を医療の領域に含むかどうかについてもこれからは議論していくべきなのかもしれない。