2024/11/12
ちんぽとケツの穴の間を一直線に走る線のことをなんと言うか知っているだろうか。蟻の戸渡りとか会陰とか虹の橋~ビフレスト~とか呼ばれているが、とにかく先日から俺はそこの部分が痛い。なにか切り傷のような鋭い痛みをそこから感じていて、あんな多くの布に隠されたマンコに近い部分に傷を負い、更にはその事実に気づかないなんてことは起こりうるのだろうかと疑問に思う。
しかし既に俺の身体は足を動かすたびにその部分がピリピリと痛み、大きく足を広げようとするとあの部分から俺の身体が真っ二つに裂けるのではないだろうかというくらいの衝撃を感じているのだから、いつ?どこで?と考えたところでしょうがない。事実、俺のあの部分は傷ついている。問題とは常に水面下で動き、表出した時には手遅れになっているのが人生の常である。たとえそれがあのマンコに近い部分だろうとそれは変わらないはずだ。
勘で傷があろう場所にオロナインを塗ったりしているのだが、あの場所はこちらからは見えないのだからいまいち適切に濡れているのかも判然としない。自分の身体なのにあのマンコに近い部分を触っているとまるで別の生き物を触っているイメージが俺の頭の中に浮かぶ。あざらし。俺はあざらしのぶよぶよの部分を触っている。
そういう面から見てもそうだが、人情として傷があるのならばそれは見たいと思うのが心の動きとして通常だろう。どんな傷で今どんな具合なのか、見たい。
しかしあの部分を見るためには何かにあの部分を映す必要がある。試しに部屋の姿見の前でまんぐり返しの格好になってみるも、俺の身体が硬いからか首だけを鏡の方向に向け続けるのが難しく、なんかいい感じにあの部分が見れない。
そうなってくるともはや俺が思いつくあの部分を見る方法は一つであって、スマホだ。スマホの功罪の一つとして手軽に写真を撮ることが出来るというものがある。これにより人々は思い出をデータという形にしていつまでも残すことが出来るようになったが、いつまでも残る特性故に軽率な写真を撮ることで今なお苦しんでいる人間がいることを俺はよく知っている。つまり、スマホという悪魔のツールはアナルの写真が撮れてしまうことで人々に消えない傷跡を残し続けているのだ。人がムラムラするのは機能としてしょうがないことなのに、スマホなんてものが近くにあるから人はアナルの写真を気軽に撮れてしまうようになった。
俺は今からそれをしようとしている。もちろん、インターネットにアップすることは決してないがしかし俺はあのマンコに近い場所に出来た傷を見るためにセルフタイマーを使いスマホの前でアナルをありありと見せるあの体勢をしなければいけないのだ。
今までの人生で俺は俺の浅慮故に失ってきたものがたくさんある。お金、名誉、信頼、挙げ始めれば枚挙に暇がない。だからこそ俺はマンコに近いあの場所の写真をセルフタイマーで撮ることに格段の躊躇がある。撮れば俺の写真フォルダにアナルの画像が存在することになる。ソシャゲのスクショ、料理の写真、そして俺のアナルの写真。傷の具合を確認し少し笑った後に消せばいいが、iPhoneでは消した写真は「最近削除した項目」に移動し、そこでまた時間が経てば灰が散るようにいなくなっていく。しかし自分のアナルの写真を撮るという行為そのものに俺は罪を感じてしまっている。撮りたくない。けど傷が見たい。こうやって日記を書いている今もアナルを撮るかどうかの結論は出ていない。
俺が軽やかに動ける人間だったらアナルの写真を撮って少しくすっと笑ってデータを消してすぐ寝るなんてことが出来るのだろう。けど俺は自分のアナルの写真を撮るだけでも迷ってしまって動けなくなってしまうような人間なのだから、今までも多くのものを取りこぼしてきた。動けなくなってしまって足を踏み出せない時は、あの部分の痛みを感じることはない。人は挑戦により痛みを得、その引き換えに何物にも代えがたい経験を得る。停滞の人間に痛みは訪れないが、しかし成長も出会いもない。俺は痛みを恐れてまんぐり返しが出来ないでいる。