2024/08/22

昨日くらいからTwitterで話題になっているゲイのカースト制度について書こうと思うが、なんのこっちゃ分からない人はなんのこっちゃ分からないまま読んでほしい。

そもそもTwitterで今過熱している話題をすぐ触りに行くような真似は炎上に加担しているようで美しくない行為かもしれないが、よく考えたら俺のnoteなどドライヤーの説明書並みに読まれていないのだし俺が今から書くことが誰かの加担となる可能性も低いので書くことにする。俺は自分が気持ちよくなればそれでいいオナニー猿カスである。

まずゲイの中にカーストが存在するかと言われれば、各人の中にある程度通底したものが存在していると言えるだろう。どこまでいっても主観の話にはなるが、あの人はゲイとしてのレベルが自分より高いと感じることは一般的なものだと思う。それこそインターネットなんてものがあるから東京、といった顔をした完成度の高いゲイの話題はおしなべて届いてしまうのであって、そこに劣等感を感じるのだとしたらそれがもたらすであろうカーストの感覚を無いものとして無視することは俺には難しい。もちろんどんな人間を自分よりレベルが高いと感じるかはその人の立場次第なので、ゲイという集団の中に一貫した完成度の上下があるわけではない。冒頭に書いたように今回のカースト発言を知らない人はそれこそ立場の違う人なのだろう。

では、渦中のカーストの感覚が実際にあってそれに苦しめられている!というのが今回の問題なわけだが自分が苦しめられている価値観の理屈を逆手にとって今回で言うカースト上位者とされる人たちを焚きつけるような言をしたことは手法としては良くなかったと思う。圧力に苦しんでいるのならばそこからの脱却、自由を目指すことがBetterであるとは思う。ツイート主がどのような意図で一連のことを言ったのかは定かではないからあまり言えないが、苦しみに苦しみを返すのは悪手じゃろうて蟻んコではあると思う。

学校を始めとして閉鎖空間にはカーストというのは生まれやすいがSNSも広い世界に見えてゲイが集まっている部分は閉鎖空間に近い。しかし同じ閉鎖空間でも学校とゲイの世界の違いは身体をどこにでも伸ばせる点にある。学校は義務教育として登校を命じられ身体と精神に苦痛をもたらすがゲイのSNS社会は観測により精神に苦痛をもたらすかもしれないが身体はどこにも縛られていない。どこにでも足を伸ばせる大人である俺たちは嫌なものは見ない、自分の好きな場所で好きなことをしていいはずなのだ。苦しみがこの世に存在している、という事実だけで頭に靄がかかってしまうかもしれないがこの不安や恐怖は実体のない存在であってそこにビビって逃げてもその先で初めまして気が合いますねの人と知り合ってじゃあ今度飲みにでもいきましょうなんて言って落ち着けたらいいですねと願うばかりである。

どちらにしろ焚きつけ焚きつけられで話題が大きくなった様相であって、喧嘩すんななんてことはさらさら思っていないが焚きつけられた方も結託して悪口言ったりはしない方がいいわなとも思う。結託という行為は本当に怖くて、閉鎖空間の中で声の大きい人が結託を呼びかけると普段優しい人までおかしくなってしまう。閉じた環境は一時的にでも人を変質させる。自分の根本をモブキャラみたいにしたくないなら他者の扇動に流されずにいた方がいい。別に俺だってそうじゃないとも限らないが。

なんにせよ上には上がいるのが分かってしまうのが現代であって、俺だって結構ちんぽ大きいと思っていたのだが世の中には俺より大きい人がいっぱいいて苦しいですよ。井の中の蛙っていうほど悪い言葉じゃない気がする。

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