2024/10/18
4年前の日記にいいねがされている通知が来ていて、久しぶりに4年前の自分が書いたことを読み返してみた。それが以下である。
まず全体的にすっきりとしている。500文字もいってないんじゃないだろうか。今は大体1000~2000文字の間で書いているから昔と比べると文章が煩雑になったとも言えるし濃くなったとも言える。個人的には言葉足らずな気がしてしまうがインターネットで読む文章などそこまで長くない方が好まれるだろう。折角なので細かく振り返ってみる。
日高屋美味いのにフツーとか言っている。この頃は油そば食べてなかったのか?日高屋はニラレバと油そばが美味いです。
昼間からビールを飲んでるおじさんに感想を残しているが、これも今の自分からは出てこない感想だ。この日記の数か月後に在宅で暇になった俺は真昼間からベランダで干し肉を作りながらSEXをしている。人間こうあるべき、などもはや俺が言っていい言葉ではなくなった。
Twitterの分析などやっている。気持ち悪いの人間だ。分析の結果も浅いことしか言っていない。いっぱいいいねもらえて嬉しいな、とか言っていたらまだ可愛げがあるが、それを書いていないのは恐らく無駄な自尊心が感情を表に出さないことをクールだと定義づけているからだろう。
ここの意見は今と大して変わっていない。しかし先ほど書いた通り"嬉しがる"ことはむしろ可愛げがあって良い。気持ち悪い習性と言えるのはいいねが多いことをなにかの根拠にしだした時だ。本が好きなことは良い事だが、年間1000冊読む俺が選ぶ!と言い出したら少し気持ち悪いのと同じ。数字というもので他者を煽ることは気持ちの悪い習性なのだ。極論、数字がキモいのだ、俺は。引用の文末の通り、これは俺だけの話であることは変わりない。
この頃はポケモンパンを買っていた。懐かしい。結局、シールって貼るものだから貼れるようなところが中々なくて買わなくなってしまった。キラキラのシールを貼る時の悦は何物にも代えがたいと思う。
彼氏にシール貼ってもらった件は嘘だと思う。そんな記憶はない。オチの為に事実を捏造することは今もよくあることだ。事実を淡々と書くルポルタージュのような日記は俺があまり好きではない、という言い訳はあるが別に事実を飛躍させる必要もないのでこの辺りは俺の混沌とした考えとして答えは出ない。
彼氏、とあるが文中の彼氏とは別れてその後にもう一人と付き合ったが結局別れている。つまるところ全ての別れ話に共通している「自分を変えることが出来なかったから」という理由での別れ。愛とは互いを研磨し合い棘をなくしていく作業を繰り返すこと、という言葉を俺は昔に本で読んで知っているはずなのだが、いつまでたってもそれに耐える精神が身につかない。気持ちの悪い、弱い人間である。