2024/02/20

俺は他者から見ると下らない・いらないものを買ったりすることが多い(ポケモンパンなど)。そんなことをしていると時々、「それ普段必要?」と言われることがあるのだが、言ってしまえば全然必要じゃない。ポケモンパンはポケモンシールが欲しくて買うのだが、ポケモンシールを保管しているわけではなく好きなところに貼って放置することが多いので手元にポケモンシールは一枚も残っていない。
「普段必要?」という問いかけはごもっともであって、そんなもんに無駄遣いするなよとか俺だったら買わないけど…とか色々な意味を含んでいると思うのだが、しかし”普段”必要なものだけで自分の周りを固めてしまえば俺に必要なものはコンドームとヘパリーゼくらいになってしまう。歌舞伎町のホストのようなラインナップだが、これがちんぽが臭そうな太ったゲイの持ち物なのだからあまりにもさようならである。
俺に普段しかないのであれば、こんな日記は書いてないし皆さんも普段を送るだけの日々であればこんな文字だけのエンタメ性の薄いコンテンツを見たりはしていない。人間には普段以外の余暇を楽しむ心があるからポケモンパンだって生まれたのだ。

道で出会って知り合いになった生き物がふと見ると死んでいた。
そんな時なんで悲しくなるんだろう。
そりゃ人間がヒマな動物だからさ。
だがな それこそが人間の最大の取り柄なんだ。
心にヒマ(余裕)がある生物 なんとすばらしい!!

『寄生獣』最終巻より

『寄生獣』の最終話にてミギーが言ったセリフである。心に余暇があるのが人間の取柄とするならば、人間の生命維持以外の行動はすべて余暇から繰り出された行動でありその全てが素晴らしい、と言うことが出来る。
つまり、ナイモンで若い可愛い子にブリーディングしたのにブリーディング返ってこないことに少し悲しく思ったり、Twitterでちんちんの映った画像出してみても思った以上にいいねが伸びなくて自信がなくなったり、リアルドタキャンされてストレス発散するために発展場行っちゃったりすることだって人間としてヒマだから出来るわけでそれはミギーから見れば素晴らしい、人間賛歌に値する行動なのだ。人間の生きる意味とは、それを考える思考そのものに意味があるのかもしれない。なぜならば生きる意味を探すくらいヒマな生物など人間以外にいないのだから。俺の買う無駄な物だって素晴らしき意味があるし、あなたの一人寂しくシコる日々にも美しき意味があるのだ。

一方、アランという哲学者は『幸福論』の中で生きることについてこう書いている。

われわれは無理やり、生きるように命じられているのではない。われわれは、むさぼるように生きている。見ることは見ようと欲すること。生きることは生きようと欲すること

アラン『幸福論』を読んだ記憶から曖昧に引用

アランと言えば「幸福というのは、人生の味そのもの。イチゴにイチゴの味があるように、人生には幸福の甘さがある。」という名言があるが、しかして生きるとは生きようとすることで成立し得るものだとも言っている。
ミギーという右手畜生から言わせれば人間とはその生きる上で不必要な思考、つまりヒマがある故に素晴らしいとのことだが、常に生きることに苦しんでいる人間から言わせれば生きるとは必死になること(むさぼること)で余裕なんかないんだよ、バカといった感じであろうか。

これはめちゃくちゃ俺が恣意的に解釈した言葉なので、アランが真に言いたいことはぜひ『幸福論』を読んで欲しいところだが、俺なりに思うのはむさぼるように生きることの方が人間の真に近いはずだが、しかし余暇を素晴らしいと思うことがなければその人には普段以外が無くなり、ポケモンパンは無駄であり、オナニーも処理の為、発展場などキモすぎ、それは貧しいことなのではないかと思う。

そもそも俺たちゲイは社会の余暇の部分を頼みの綱にしながら生きている性志向である。本当に生きることをむさぼるのみなら、命を繋げるリブロダクティブ・セックス以外は全て無意味。つまり俺たちのSEXはポケモンパンである。
何の因果か人間の発展に真っ向から中指を立てるような性志向になってしまった俺たちは、男のちんぽを舐めるという人生の余暇でしかない行為に美しさを見出せていけたらいいですね、と思っている。ミギーが人間を褒めるのって最終話のこのセリフだけだった気がするので、そういうところを含めても俺の中で一番好きな人間賛歌です。

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