2025/02/12
コミュニケーションの問題というのは場所を選ばず存在し、社会動物である人間の悩みの8割は他者との関係値の中に偏在している。あと2割はエネルギー問題とかですか。
noteを継続的に見てもらっている方は知っていることだと思うが、最近はゲイバーでアルバイトを始めたことにより自分のコミュニケーションを改めて見直す形になっている。
問題点として思うのは、俺はコミュニケーションを”降りる”形で参加していることが多いということだ。降りるとは状況をメタ的に捉えた発言をすることで、例えば俺は若くしてゲイバーで長く働いている先輩たち(年下)に対して「彼らはゲイバー上手すぎますからねwww」などとよく言ってしまっている。
自分が褒められたことを書くのは体調が悪くなるのであまり書きたくないが、時々お客さん側から「新人とは思えなかった」「手慣れていた」とか言われることがあるが、これは”降りている”故にそう見えるのだと思う。自分もゲイバーの店員である、という当事者意識から離れ、責任感・緊張感から自分を解放しようとした結果、あの手この手で自分を含めたカウンターの内側の人間を腐し、高いところにいるように見せているのだ。
もちろん、これがめちゃくちゃ悪いとはならないのが難しいところで、こういう降りの精神から放たれる言葉って平均点くらいの笑いがとれることも多い。降りの中でも良いセリフは時々あって、例えばめちゃくちゃ仲間内で盛り上がっている時に「俺たち青春過ぎないか?」とか言ってみれば、なんか本当に青春みたいな気がして熱狂に多少の燃料を足すことは出来る。しかし、このセリフは降りているやつから出てくる言葉なのは確か。だから降りている奴が一人二人いても全然悪くはない。降りている奴は盛り上がりの外周をなぞって輪郭をはっきりさせてくれることがある。
ちなみに、以前書いた「ゲイSEXにおける言葉責め解説」という記事があるが、あれは正にこの「物事の外周をなぞり輪郭をはっきりさせる」ことが出来る人間に向けた記事である。
問題なのは、俺が降りることに依り過ぎていることであると認識している。前述のように降りることは燃料を足すことは出来るが”燃料そのもの”になることは出来ない。爆笑を生む中心に降りてるやつがいたことなど有史以来いたことなし。俺が働いているゲイバーにはそれが出来る俺より若いやつが多数いる。その先輩たちへのリスペクトがある故に、自分を戒める形になっているのかもしれない。
接客のお店なので色んな形の人間がいていいと思う。思うが、しかし等身大の話も出来ずに人と正しく対面できようかという真っ当な悩みもある。
TRPGをする経験が最近あったが、あれは徹底的に降りないことで物語を楽しむゲームである。言わばゲームなのだからどんな態度で挑もうと自由はあると思うのだろうが、しかし「やるからには降りるな」という圧迫感をTRPGをやりなれた人間は持っている。
ならばゲイバーの接客にも同じことが言えるのではないのだろうか。言ってしまえば人生などゲームなのだし。しかし降りてない人間の強さに最近は感服しっぱなしである。