へらへら
いつからだろう、
いつしか怒りの感情を表に出すことをやめた。
中学生の頃の私はとてもキレていた。
比喩とかではなく本当に毎日何かにきれていた。
部活の顧問に、あほな同級生に、話の通じないファミレスのバイトに
悪口なんて言われた日には100倍返しだった。
やられたらやり返す。1対1はいじめじゃない。と徹底的に戦闘態勢だった
そして、その相手に向かって怒りをぶつけるだけでは飽き足らず、来る日もくるひも両親に今日あった嫌なことを怒りのままに話していた
いわゆる『反抗期』とは少し違う気がする。家族のことは好きだったし、うっせえババア!なんて思ったこともない
正直いま冷静に思い返してみても私の言い分がそんなに間違っていたとは思えない。
だけどひどく幼稚だった。未熟だった
私のこの負の感情を思いっきりぶつけられる側の気持ちを考えられなかった
私の言っていることが正論なのだから、相手が反省して改めるべきだと、本気でそう信じて疑わなかった
だけど、気づいた。
怒りのエネルギーは長くはもたないこと
自分も相手も燃やし尽くしてしまうこと
そのあとには何も残らないこと
感情のままに怒っている人はひどく無様に見えること
そして相手には自分では推しはかりきれない背景があること
怒りの感情を思うがまま相手にぶつけて、物事が良くなったことなんてない。
その場では多少すっきりするかもしれないけれど、あとから相手の事情を知った時、冷静にその時の自分を振り返ってみたとき、ダサすぎて自己嫌悪に陥るだけ。
だから怒ることをやめた。
0か100かでしか生きられないなんて不器用すぎると自分でも思う
だけど、気づいてしまったらもう怒れなくなった。私が我慢すれば少なくとも誰かを傷つけることはないしダサく見えることもない、とそう思った
最初は良かった。
ぐっとこらえてへらへらを演じている間に冷静になって、自分の思い込みに気づけたり、前向きに考えることができるようになった。
ただ、怒ってもいいこととそうじゃないことの区別がついていなかった。やっぱり未熟だった。
だからそのうち私は自分が傷ついてしまったときにも、受けた痛みをごまかすように、いかにも怒っていません。なんとも思っていません。とみせるためにへらへらしてしまっていた
自分を大切にするはずが、自分の痛みに鈍感になってしまった。
今までは真ん前で赤い血を吹き出しながら暴れていた私の心は、いつしか私自身にも見えないところでひっそりと透明な涙を流すようになっていた。
そして流すものもなくなってからっからの限界がきて私は初めて自分がとんでもなく傷ついていたことを知る。
だけどもうそこから怒ることなんてできなくて、そんなパワーは残っていなくて。ひたすら寂しい。悲しい。といううちに向けた感情と1人で向き合うことになる。
だからまた、怒る練習を始めようと思う。
へらへら期を経て、きちんと相手を思いやって感情をコントロールすることができるようになった。だから同じくらい自分のボロボロになった心も大切にしてあげたい。
もうへらへらに逃げない。
誰彼構わず感情の刃をむき出しにして周りを攻撃していた時期、周りのことから逃げて自分をひっそり傷つけていた時を経て、そろそろ第3のステップに進みたい。
次のステップはなんと名付けようか。
生きるのが不器用すぎて、結局死ぬまで未熟なままな気がするけれど、
へらへらしてたって魅力的な人にはなれないからね。
ちょっとずつ前に進もうね。
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