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対象のない世界

定義

 僕の好きな「感じ」(クオリア?)のうちの一つに「対象のない空間」ってものがある。これについてずっと考えていたことを吐露してみる。

※以下全ては個人的な妄想の過程であって一般的に普及している概念かどうかは全く気に留めていないし、芸術の専門的な言葉もその意味が正しいかどうかは保証しない(僕がそう考えているというだけ)、ということに注意してほしい。

まず個人的に考えていた「対象のない世界」の安直な定義としては以下のようになった。

空間が何かで埋め尽くされていて、その媒質は「ある」けど全てが同質のために、主観からの対象としては「ない」状態。

無対象芸術

 こういう物を初めて一般化して捉えたのは無対象芸術の存在を知ってからだと思う。無対象芸術とはその名の通り対象のない芸術のこと。artscapeにはこんなふうに書かれていた。

描写対象のない抽象画(非形象絵画)および造形芸術のこと。20世紀初頭にドイツとロシアにおいて、リアリズムおよび自然主義への批判として展開された。色彩、フォルム、ヴォリューム、質感、コンポジションなど絵画そのものの要素やそれらの組み合わせを前景化させた自己充足的な絵画といえる。

artscape 無対象芸術

 印象派によって絵画が芸術として捉えられた後にキュビズムが生まれ、芸術の自己目的性がいよいよ表出してきた頃、さらにそれを突き詰め始めた美学の内のひとつが無対象芸術である。絵画の要素(形や色)自体にスポットを当てた芸術。
無対象たる所以は、これまでの芸術が風景や静物などの対象が存在していて芸術というのはそれらを表現する手段である(道具的)のに対して、ここでは絵画の要素を表現するのを通して新しい芸術的手段の模索を表現している点(自己充足的、より高次の芸術のための芸術)。

 代表的なものにマレーヴィチの「黒の正方形」がある。無対象芸術のコンセプトに基づくと、この絵は「黒い正方形」を対象として描いているのではなく、そのテクスチャや形や色という要素を表現しているということになる(と思う)。

黒の正方形 - カジミール・マレーヴィチ (1915)

 ただの黒い正方形で、現代美術にありがちなインテリぶった捻くれていてつまらない絵であると感じるのも無理はない。思うにこれは、絵画を道具的芸術の観点で鑑賞しているからこその感想だ。

 単純に画像を貼り付けただけではわからないが、僕はこの作品を見るときこれが美術館や展覧会などの空間に飾られているのを想像する。その空間にいる人々は作品を求めてそこにいるはずであるのにその作品にはわかりやすい対象が存在していない。注意してほいのは、こういうアイロニーが面白いと言っているわけではない。

 この作品がない場合の空間と、この作品がある場合の空間を比較してみる。この作品がある空間はこの作品のための空間であると考えられ、作品が支配する空間となっている時点で、作品のないプレーンな空間とは違っていると言える。この作品が支配する空間こそが「対象のない空間」である。

 先程の定義に戻ると、空間を埋め尽くす何かは「作品の作る」空間に存在する緊張感や鑑賞という行為を通じて生まれる他者との一体感だろう。

 DIC川村美術館にある「ロスコ・ルーム」もこの「対象のない空間」を生み出す代表的な作品の一つだろう。ここは7枚の巨大な赤色で無機質な絵のためだけに設計された空間であり、その絵による空間の支配感に鑑賞者は圧倒されつつも、また、作品を通じて空間を支配する緊張感や一体感を体感する。
 このロスコ・ルームは、2024年の暮れに行くことができた。実際のこの部屋は写真で見るよりも薄暗く、作品の主張をより感じることができ、空間が赤く巨大な絵が支配する圧迫感や緊張感に、何か崇高な気配さえも感じられた。これは全く僕の思っていた、無対称性の表出であり、絵の作り出す雰囲気や空気感といった媒体に包まれる心地よさがあった。

ロスコ・ルーム

シューゲイザー

 僕の好きなシューゲイザーも、それが好きなのはこの無対象の世界に浸る事ができるからであると考えている。
 シューゲイザーは音楽における無対象芸術のうちの一つではないかと思う。

 他の音楽、例えばクイーンやマイケルジャクソン(古い?)などの一般的な売れている大衆曲の要素を考えてみると、曲の要素ではその個性的で盛り上がれるようなリズムやメロディだったり、ボーカルの声質やギターの音質の美しさに焦点が当たっている。ボヘミアンラプソディの良さはその構成やギターソロ、フレディマーキュリーの歌やコーラスだし、Beat itの良さはやはりマイケルジャクソンの歌なしには語れないし、エディのギターソロも外せない。これらには優れた対象が存在する、つまりこれは道具的芸術である。

 一方でシューゲイザーに目線を向けてみる。シューゲイザーにも様々なものがあるが、その特徴的な要素として、

  • ファズやディストーションがかかり、輪郭のぼやけたギターのコード(特に9thやmaj7thといった曖昧なコード)

  • 単純だが美しいメロディ

  • ボーカルの囁くような歌声

  • 単調だが存在感のあるドラム

などがあるだろう。
 ここでリフレインとメロディは相補的な関係にあると思っている。轟音ギターのリフがあるからこそメロディが美しくなり、単純でもメロディがあるからこそ轟音でもリフが心地よくなる。これは他のジャンルでもある程度は言えることだろうが、この場合はどちらも単調な分そのテクスチャが特に際立つ事でその相補性はその程度を増す。このテクスチャにこそ、シューゲイザーにおける無対象性、自己充足的要素が潜んでいる。

 音楽においてテクスチャの与える印象が増えるということは、音楽を聴く体験を「音楽」として受け取る部分と「音」として受け取る部分に分けた場合に後者の割合が大きいということだろう。「音」とはまさに無対象芸術の文脈における『絵画の要素』自体に相当すると考える。

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