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25歳一人っ子、母ががん宣告を受けた5ヶ月後、父も癌になる。②〜父編〜

今日は詳しい結果…というか今後の流れがわかってきたので父について綴っていこうと思う。
前回の記事はこちら↓



母からの電話

年末が近づく12月半ば。母からLINEが来た。

話しあるんだー
終わったら連絡して🙇‍♀️

嫌な予感。
次の抗がん剤治療はまだもう少し先だし、「病院に行ってきた」なんていう話は聞いていないから検討はつかないけど、なんだろう、めっちゃ嫌な予感がするのはたしか。

仕事も落ち着いていた時間なので学校から母に電話した。

パパ、癌だわ。胃癌。肝臓に転移もしてるみたい。


え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なんやそれ、なんで同じタイミングで癌になっちゃんてんのよ。
仲良いな。離婚してんのに。

そうなんです。私の母と父は私が小さいときに離婚しています。

もう20年以上前に離婚した二人だが、なんだかんだ関係が続いていて、母が癌になってからは父は見違えるように母を支えていた。
抗がん剤治療の通院のときは毎回母を送迎していたし、「あの父親がどっから金出してるん…?」と思うくらい、経済的にも支援していた。

1週間くらい前、父と母がご飯を食べに行った際、「胃が重たくて最近ご飯が食べれない」と言葉を漏らしていたらしい。母が病院を勧めていざ受診すると、「ここでは対応できません。大きい病院にいますぐ行ってください」と言われたそう。

あっというまに入院、検査をして、結果が出たということなので、年末に父の元へ母と一緒に向かった。

お医者さんの話を聞くために病院に向かい、ナースステーションで受付をしているとき。ちょうど父が廊下の端から歩いてきた。

私が父と最後に会ったのは4.5年前。
目の前に現れた父は、記憶の中にいた父ではなかった。

頬はこけ、比較的ふくよかだった父は見違えるほど痩せ細っていた。

癌の威力を目の当たりにしてしまった。見たくなかったのに。

そしておりた診断は胃癌ステージ4。
肝臓の全域に転移しており、手術できる期間はもう過ぎていた。
これからは薬物治療に移っていく。
従来であれば、余命は1年〜1年半くらいだと言われていたが、医療は日々進歩している。5月には新薬が開発されているので、希望を持ちましょう。
というような話だった。
母は多分泣いていた。

病室に戻り、父は「もうダメだってことだろ。今度温泉にでも行くか。」と俯瞰して呟いていた。

体の痛みも強いようで、「いやーなんか痛いんだよな」と言っていきなりパンツをガバッと下ろし、自分の局部を確認していた。

いや、な、え?どういうこと。ケツがっつり元嫁と娘に見られてますけど。
奇行すぎて笑いと涙が止まらない。
「あんた脳にも転移してんじゃないの」と母が渾身のブラックジョークを放っていた。


余命宣告

胃癌ステージ4の宣告をされてから、父は一時退院をして、年明けに腫瘍内科での検査のため再度入院した。

そして本当につい最近、その結果が出たようだった。

一昨日、母が父の姉から聞いた医者の話は、もう前向きな治療はできないということだった。
これから行う抗がん剤治療も、延命治療だと。

余命は桜が咲く頃。長くて9ヶ月くらい。

……。桜が咲く頃ってなんやねん。
桜が咲くのって地域によってだーいぶ差があるけれども。
春ってことか。春っていうことだな。いやでも私の感覚では春って4月だけど、その時期に私が住んでる地域は桜が咲かないんだよな。
なのに長くて9ヶ月って。そこだけは具体的なのはなぜなんだ。

桜が咲く頃、なんていう詩的な表現はいらないから◯ヶ月と言ってほしかったなぁ…。なんとも言えないから濁すしかないのかなぁ…。

つい2週間前までは「希望を持ちましょう」なんて言われていたのに。

しかも、もし治療が2週間早く始まっていたら、予後はだいぶ違っていたらしい。
年末年始が挟んでしまい、治療が遅れたのも原因の一つだったと。

今年は9連休だったもんね。

でもさ、別にそれ言わなくてもいいじゃん〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
お医者さん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

言われたところで何もしようがないじゃない。
後悔することしかできないじゃん。
父にこの話は伝わっていないことが唯一の救いだと捉えるしかない。

そして私はここに残すことで、医者の言葉を無駄にしないようにする。

みなさん、病院は早めに行きましょう。
早めにじゃないですね、早く行け。とにかく早く行くんだ。

年末年始、お盆、GW…体調が芳しくなければ連休の1ヶ月前には病院に行きましょう。
治療が大幅に遅れます。

ということで…とにかく私と父に残された時間はほとんどない。
なんとかして父を温泉に連れて行きたいと思っているが叶えられるだろうか。
来週、父は入院してしまうので次退院できたときが勝負だろう。

なんとしてでも私の夫とも会ってもらわねば。

夫と付き合って約5年、結婚して約3年、結婚式も挙げたのに、
父は私の夫に会わないまま、ここまで時間が経ってしまっている。


私と父

母と父が離婚したのは私が2歳の頃。

父と付き合ってたときは「こんな面白くて優しい人なんているんだろうか…!」と母は思っていたそうだが、母が妊娠した途端、父はダメ人間に豹変した。

給料日に給料をギャンブルで使い切る。
母の大切にしていた指輪を勝手に質屋に入れて金にする。
私が生まれた日は飲んだくれていて、先に病院に着いていた私の祖母に「あんたどこに行ってたのよ」と静かに足を踏まれる。
一応立ち会い出産だったので分娩室に入ってきたもの、「ひっひっふー」の呼吸が酒臭すぎて、「でてけえええええええええええ!!!!!」と母に追い出される。
あげればキリがないが、とにかく最低だったらしい。

「こんな面白くて優しい人なんているんだろうか…!」から「お前の顔なんて見たくねえ!」のスパンがトツキトオカ。娘の私が言うのもあれだけど、それから結婚生活が2年も持ったことに驚く。

そんなこんなで離婚に至ったのだが、私と父の交流は離婚した後もそれなりに続いていた。

母は心底父が嫌いだったし、関係を切れて清々した気持ちが10割だったと思うが、「私がパパのことを嫌いでも、あんたにとっては唯一の父親だから」と、「父が私に会いたいときは」いつでも自由に会える環境でいさせてくれた。

そう、私は父に会いたいと思ったことがなかった。

父と私が会っても、歩くのが遅いなどと怒られるわ約束は何度もドタキャンされるわ、終始ぶっきらぼうだわ、正直「父との幸せな思い出」を私は持っていないかもしれない。
母から父がどれだけクズかということを、何かある度に聞かされていたし、会ったら会ったで嫌な思いをするし。だから私は「父に会いたい」と思ったことがない。

でも親子としての関係を続けられていたからこそ、「父親がいなくて寂しい」という思いをしたことがなかったのだと思うし、父に会いたいと思うこともなかったのだろう。贅沢な思考だと思う。

父とは中学校3年間はなぜか一切連絡を取っていなかったし、中学校の卒業式と高校の入学式に会ったっきり、高校の卒業式までまた会わなかった。

父から連絡がない限り会わない。あくまで私は受け身だった。


でも今思い返せば。

会う回数は私が大きくなるにつれ減っていったけれど、
私の人生の節目には、ちゃんと父がいた。



小学校6年生のとき、保護者の方にこれまでの感謝の気持ちを伝えようという「感謝の集い」というものにも父は来ていた。
私が8年間習ったピアノを辞めるから、最後に合唱の伴奏をする私を見にきたのだった。
平日の真っ昼間、両親が来ているのは私だけだった。
わざわざ仕事を休んで下手くそなピアノを聴きに来たのだろうか。

中学や高校の入学式と卒業式に顔を出してくれていたのも、ちゃんと私が今何歳で、何年生で、春になったら高校生、大学生なんだなと忘れずにいてくれていたからだろう。

成人式のときには「養育費を払ってこなかったから」と言って振袖を買ってくれた。生命保険を一つ解約して。

そういえば小さい頃、父の電話番号の下4桁は私の誕生日だった。
今スマホを確認してみると、まだ私の誕生日がそこにあった。

そんな事実に今さら気がついて涙がボロボロ溢れてくる。


なのに!なのに!!なのに!!!
結婚式に父は参加しなかった。

私が人生で一番かわいいいであろう、節目の中の節目やぞ。

半年以上前に声をかけたのに不機嫌MAXで「行けたら行く」って言ってきやがった。
娘の結婚式に「行けたら行く」ってなんやねん。

今まで母が「あんたにとっては唯一の父親だから」と言ってくれていたから、ここまで関係が続いていたのに。前までは参加するって言ってたのに。
また約束破るのかよ。娘の結婚式に行かない選択肢があるなんて、今までの関係性はなんだったんだろう。

そして私は「じゃあ来なくていい」と言って父に招待状を出さなかった。

めちゃくちゃ腹が立っていた。その裏で多分、悲しかった。ショックだった。寂しかった。
怒ってる感情で本来の気持ちに蓋をしてしまった。
その一件があって以降、父と連絡は全く取らなくなってしまった。

でも今ならちょっとわかる。

一昨日、母が父の姉と会った際、父が母の抗がん剤治療の送迎していることに対して、
「〇〇(母)が来いっていうからよ〜朝何時に出ればいいんだよって感じだよな〜?」と言っていることが発覚したらしい。

「お姉さん、私、一っっっっっっ回も来てくれって頼んだことないですから。あの人が来るったら来るってうるさいんです。」と真実を伝えたそう。

たぶん父のかっこつけだったんだろう。照れだったのかのしれない。
結婚式の「行けたら行く」発言も同じ匂いを感じた。

私が「来てよ」と押せば、きっと来てくれたかもしれない。
素直な気持ちえお言えば「しょうがないな」と言って来たかもしれない。
離婚した娘の結婚式、というのも行きにくかったのかもしれない。

母が結婚式後、私のウエディングドレス姿の写真を送ると喜んでいたと教えてくれた。

お互い意地を張らないって大事だよね。

何かがこぼれ落ちてしまう前に、余分な荷物は置いていきましょう。
世のお父さん方、おじさん方。かっこつけなんていらないですよ。

ということで、父との残された時間でやるべきことは2つです。

①父を温泉に連れて行く
②父に夫を会わせる

=両親と私と夫、4人で温泉に行く

初対面で一緒に風呂に入ってもらいます。なかなかなハードルですね。
私が夫の立場だったらちょっと、というかだいぶ気が引けるけど、夫は「いいね〜!背中流すわ〜( ´ ▽ ` )」と言ってくれた。すごい。

父もLINEで母に「元気なうちに〇〇(私の夫)に会わないとな」と言っていたそうなので、一石二鳥!


最後に

今回、noteの記事を書いていて、初めて父のことで泣くことができました。

心のどこかで、「離婚しているし、父と一緒に暮らした記憶もないし、いい思い出も少ないし」と傷つかないように貼っていたバリアを溶かすことができたなと。

父の存在そのものが、自分の人生の一部だったと、離婚していても会わない時間が長くても、自分の内側から「私は大切にされていた」と自覚できたことが、長年の蟠りを解いてくれるきっかけになりますように。

今日も長い時間、ありがとうございました。




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