変化する「あんた」(アクターズ・ショート・フィルム2)
アクターズ・ショート・フィルム2(以下、ASF2とする)は、俳優5人がショートフィルムを制作し、視聴者や映画評論家の投票により選ばれた作品が、「ショートショート フィルムフェスティバル&アジア」(以下、SSFFとする)へ出品されるというものである。
私が当企画に注目したのは、紛れもなく俳優・千葉雄大のファンであることが所以に違いないが、作品の投票については、フラットな目線で評価したいというのが自分のポリシーである。
そこで一つの危惧が頭をよぎった。
仮にこの投票で5作品の中から千葉雄大監督作品「あんた」がSSFFへの出品作に選ばれた時、「あんた」というワードの持つ日本語のニュアンス・機微ーー当作品の大きな特徴であると私が考えるーーは、アジア各国の審査員や映画ファンにどこまで伝わるのだろうか、といった懸念である。
映像・映画およびSSFFの概要等にはまるで門外漢のため、余計なお世話と言われればそれまでだが、当懸念を自分なりに解消できるように見てみたい。
「あんた」という二人称は、多数ある日本語の二人称の中でもかなりくだけた間柄で用いられる印象だ。
『広辞苑』では、「(二人称)アナタの転。(中略)現在は対等か目下の者に使い、親しみ、またぞんざいな感じを伴う。」とされている。(『広辞苑』第六版より引用)
「あなた」や「君」ではない「あんた」という音の持つ微妙なニュアンスが、当作品の大きな持ち味である。
冒頭の話に戻ると、仮に「あんた」がSSFFに出品され、英語字幕がついたとして、きっと「You are…」「You weren’t…」のような掛け合いが続くことだろう。そして、エンドロールで「YOU」と映し出されたその瞬間の観客の混乱をつい勝手に想像してしまう。失礼は百も承知だが、そんな光景に少しの可笑しさを感じてしまうのだ。
「You」には収まりきらない「あんた」という日本語の響きを、今一度噛み締めて味わいたい。
この「あんた」のイントネーションに注視していくと、25分間で描かれる男と女の関係性の変化を読み取ることができる。
千葉雄大と伊藤沙莉が扮する男と女は、「あん/た」(「た」の音にアクセントが置かれる)という独特の発声で互いを呼び合う。私は関東圏の生まれ育ちであり、方言については詳しくないためここでは触れないが、千葉ファンとして補足すると、彼が以前よりギャルの物真似を表現する際に使用し始めたものと解釈できる(注1 参考:モデルプレス「千葉雄大、質問返しデビューに反響“アナログじじぃ”キレキレのギャル語炸裂」2020/5/24掲載 https://mdpr.jp/news/amp/2079286 、フジテレビ「久保みねヒャダこじらせナイト」 #197 2020/6/19放送回など)。
(注2 なお、「久保みねヒャダこじらせナイト」ゲスト出演時にたびたび見られたゲイバー等の即興芝居や、伊藤やその他著名人の口癖から波及したのか、といった想像も浮かんだが、検証までに至っていない。)
まるで波長の合う「ギャル」(あえて性別は問わない)同士のように、気の置けない親友のような間柄の2人は、同じ響きを共有し、むきトマトを共有して、共に過ごす時間を分かち合っていた。
それから時は流れ、かつての男と思われるスナックの雇われママ(沖田修一) の目に現れたYOUの演じる女は、「あ\んた」(「あ」の音にアクセント)と標準語の発音でママに語りかける。
その瞬間、かつて男と女が2人だけで共有した独特な響きは失われ、ひいては2人の関係性がかつてとは異なる形となっていることが示唆される。
タイトルとして提示された「あんた」は、男と女の関係性を見ていく上で、重要なキーとなっているのである。
魅力的な俳優陣についても注目すべき点が多くある。
伊藤演じる女は、男(千葉)と過ごす時間には、時には大笑いしたり、とりとめもない会話で盛り上がったり、飾らない自然体でいる姿が印象的だ。その様子は、男友達との言葉を選ばないドッジボールのような会話にも、女子会のように隠し事なく心の内を共有し合っている会話のようにも見える。若い男女に世間が向けるジェンダーバイアスの視線を、笑って吹き飛ばすような魅力的な関係が描かれている。
しかし一転、家へ帰った女は別の男に出迎えられる。彼氏といる時の彼女は、一変して「女子らしさ」が表出する。
これまで演じてきた役柄や、ハスキーボイスの声質、発声の仕方等も相まって、一見サバサバした女性に見えることも多い伊藤だが、バラエティ番組などではいわゆる「恋愛体質」らしい、乙女のような性格を持ち合わせていることが語られる。
そんな彼女の両面の魅力が活かされたシーン構成であるが、この同一人物内のギャップに彼女の名演技が光る。
例えば、ベランダで1人煙草をふかす様子には、視聴者によって様々な印象を抱かせるが、彼氏と一緒に過ごしていてもふいに1人になりたくなる瞬間の哀愁のようなものに、私はひどく共感させられた。
一方、自宅で1人を過ごす男のカットも対照的に挟まれる。
彼は決して寂しそうに振る舞うわけではなく、「ただ毎日同じことの繰り返し」であることが想像される。そこに「寂しい」「苛立ち」のような感情は明言されないが、千葉の芝居のまとう、やはり哀愁を感じさせる雰囲気や瞳の揺らぎによって、視聴者はそれぞれにその胸の内を想像する。
この大きく分けて2つの場面において、両者の間に小さな溝が生まれ始めていることが暗に描かれる。
2人で食べるカレーライスと、1人でレンチンで食べる冷凍食品の差異が、視聴者の心持ちに追い討ちをかける。
全体の構成の中でも、前半と後半に区切られる2つのパートの繋ぎの役割を果たしており、ここで生まれた小さな心のひずみが、のちの大きな爆発へと繋がっていく。
自分の心の僅かな歪みに気づき、人との関係を壊さないようにそっと気持ちに蓋をすることは、多くの人に経験がきっとあるだろう。
けれども、それらを表に表出しないといっても、決して消えるわけではないのである。
大事なものであればあるほど、失うのは怖く、大事な気持ちに蓋をすればするほど、爆発してしまったら止まることを知らない。
そんな誰にも身に覚えがあるような衝突を真っ直ぐ捉えて描き、心の繊細な部分に訴える力の込もった脚本と、心の機微を表現する俳優陣の見事なマッチングによって、視聴者の心は締め付けられていく。
私は、千葉の「変化」を捉える力を常々評価したいと思っている。
人の心の繊細なところを探り、その機微を表現する彼の俳優ぶりを目にするたび、その表現のこと細かい様にはたびたび驚かされてきたが、今回挑戦した脚本、そして監督業にも見事に生かされている。
移り変わる感情や環境、それらにどのように適応して生きていかなければならないのか、我々はいつも頭を悩ませねばならない。折り合いをつけたり、誤魔化して過ごしたり、それぞれがそれぞれの選択を繰り返していくものである。
変わっていくもの、変わっていかないもの、そうした様々な事象に向き合う時の、千葉なりの一つの回答を提示したのではないか、と感じさせられる。
「味方でいる」
「1人だけど1人じゃない」
それは確かに、存在する一つの愛の形なのである。
当作品を一本通して見ていくと、この2人には「心地の良い位置」が存在するのではないか、と想像させる余地がある。
「この人といる時は自然と左側に落ち着いてしまう」というような、横並び・縦並びになる時の実際の配置のことである。
現にキャンプで座って並ぶ時には、カメラ・視聴者側から見て右手に男が、左手に女が座る形で物語が進み、またバーのシーンでもママと女(YOU)が横に並んで座ると、同様の並びに落ち着いている。
注意深く見ていくと、映される時間は短いが、線香花火をする2人が映されるカットでもやはりこの傾向は引き継がれているようだ。
2人の関係の決着をつける線香花火によって、このフィルムは幕を閉じる。ここで勝負の行方が明言されることとなるが、儚い線香花火に大役を務めさせる繊細な表現に胸を打たれる。線香花火の一方の花が静かに落ちた瞬間、息を呑み、しばらく余韻で動き出すことが出来なかった。
メッセージというのも言葉が違うように思われるが、2人の結末は「生きる」に帰結する。
「生きて」「死ぬまで生きる」
その言葉に込められた気持ちは、発せられた本人にしか分からないかもしれない。しかし、言葉に込められた生命力は、愛は、確かに我々のことを励まし続けていく。