【巴】海の幽霊

季節外れの蝉がまだ鳴いている中、空席だらけの食事処で伸び切った蕎麦を見つめながら僕は溜息をついていた。
何か食べなきゃと思い来たのはいいものの、やはり喉に物を通す力は無い。
そんな陰鬱な雰囲気を壊す様に遠くから声が迫ってくる。
「あー、いたいたいた!お前仕事辞めたって本当か!?」
そう言いながら店内を駆けこみ、僕の対面にドカッと座って来る。
「そう、だけど…流石噂好き、仕入れるのが早いね。」
「当たり前よ!こちとら人の噂だけが娯楽だからよ!あっ、俺焼き魚と白米で!大盛りね!」
店員は迷惑そうに注文を承り、厨房へと入っていく。
「それで?何で辞めたのよ?」
「……言っても信じてくれないからいい……。」
「なんだそりゃ?…でもよ?勇魚取りって言ったら花形職業じゃねぇか!鯨の肉は美味いし、骨は嗜好品、髭に至っては櫛にもなる!捨てる所がない宝を広い海原で取ってくる!船と同じ位の獲物を岸に引き上げる時なんて海辺に村中の奴らが歓声をあげながら英雄扱いで寄ってくるしよぉ〜俺ならその歓声を噛み締めて一生暮らせるね!それを辞めるなんてどうかしてるぞ?」
こいつを振り払うのは無理だ。なんせ面白そうな噂を聞くためには手段を問わない奴だと言う事を嫌と知っている。…諦めるしかない。そう思い呟いた。
「……幽霊を見たんだ。」
饒舌だった男が不意を突かれて目を丸くしている。
「幽…霊…?海で?」
僕は静かに頷く。
「それは死装束を纏った女性が長い髪を垂らしながら海辺に浮かんでたとか?」
「いや、違う…。鯨の幽霊。」
「鯨ぁ!?」
予想通りの反応。男は目を丸くして声を荒げた。
「やっぱり信じてないでしょ…」
「あっ、いや、突飛過ぎた内容だったからつい… で?そいつとはいつ出会ったんだ?」
言いたくない理由は馬鹿にされるのもあったが、思い返したくないからだ。
でも少なくとも誰かに話して聞いて欲しい、共有して欲しいとの気持ちがいっぱいだった。そう心の中で思っていたのか懺悔の様に口が回る。

「前回の捕鯨の時だよ。その時の漁は難航してさ、半月も鯨が見つからなかった。食料も底を尽きたから引き返そうと鯨臥の親父が提案した昼時にそいつが現れた。気が付いたら周りに霧が立ち込めてさ、一瞬のうちに視界が霧だけの世界になったんだ。回りが見えないから船の上ではお互いを確認し合う様に『大丈夫か~!』とか『何か明かりを!』と声だけのやり取りが続いた。そんな声だけの会話をしていたら遠くから法螺貝を吹いた様な『ボーゥ、ボーゥ』って音が近づいて来たんだ。で、あれっと思ったら瞬間、眼の前に奴が現れたんだよ…」
「……それが鯨…だった…?」
「うん、しかも見えたのは海に浮かぶ背中じゃなくて鯨の横顔が目の前にあった。でも只の鯨じゃなかったんだ…。奇妙なのがそいつの眼なんだけど…無いんだ……眼が………。眼がある場所は大人が入れる位の真っ黒い空洞だった。まるで井戸を覗き込んだような…。その吸い込まれそうな眼に足がすくんで身動きが取れなかったよ…。唖然としてたら近くに居た鯨臥の親父が捕鯨用の銛をそいつ目掛けて放ったんだが、当たった様子もなく銛の縄がカラカラと空を飛んでくだけだった…。親父も信じられない顔をしてたら鯨が『ボーゥ、ボーゥ』って鳴きながら海へ帰って行った。その時の波で船は転覆仕掛けてさ、必死に船にしがみついて気づいたら霧の晴れてた。何時もの海辺に戻ってたんだよ。凪の様に静かな海辺にね。」


吐き出すように喋り終え、お茶を一杯飲み、ため息をつく。
「ほー、そりゃまた凄い経験したなぁ〜」
まるで落語を聞いた客の様な反応をしている。
こいつ、絶対作り話だと思ってるな
「…信じてないでしょ。」
「いやいやいや、信じてるって!」
でもここまで喋ったら信じて貰えなくても聞いて欲しかった。
懺悔をする為に。
「あの鯨、自分が殺した鯨が恨んで出て来たんだと思うんだ…。鯨って捕まえる時に殺しちゃうと身体が沈んで捕まえられないんだ。だから銛で弱めて船に括り付けて捕まえるんだよ。弱めるってのに結構コツが必要で、僕は最初の頃失敗して1頭捕まえられず殺しちゃった事があったんだ…。その時、僕の下手な銛捌きで苦痛だけを長引かせて殺したから拷問に近い形になったんだよ…」
こぼれる様に呟き、一番吐き出したかった言葉を放つ。
「そいつ恨みが幽霊になって出て来たんだよ!僕を殺す為に!多分、今回出会ったのは警告で次あった時にやられると思う。だから会うのが怖くて勇魚取りを辞めた…」
深刻な表情で話す僕を見たのか飄々としていた男は黙った。
お互い沈黙が漂う中、「焼き魚と白米大盛りお待ち!」と店主が威勢良く料理を出してきた。
男は焼かれた魚を見ながら固まってる。
流石に今の話を聞いて食欲が無くなったみたいだ。


それでも沈黙を破ろうと男が聞いてきた。
「眼はともかく姿はどうだったの?半透明とかさ?本当は新種の鯨かもよ?」
「見た目は鯨そっくりで透明ではなかったなぁ…でも体から青い炎が出てる様なモヤが掛かって・・・。」
と言い終る前に不意に肩を掴まれた。
「確かに見たのか?」
僕の肩を掴みながらそう言い放ったのは片目が眼帯の目付きの鋭い女性だ。
着崩した着物に片腕だけ甲冑の異色な女性。
突然の出来事で置いてあったお茶をこぼしてしまったが蛇に睨まれているかの様な目付きに縛られ、身動きが取れなかった。
「えっ?あっ、は、はい。た、確かに見ました。」
「そいつの体に刀とか刺さってなかったか?」
「刀…ですか?いや、刺さっては無かったような…あっ、刀か分からないですけど顔の近くに銛の様なのは見かけました。で、でも普通のより細かったので刀だったかも…」
たどたどしく記憶を遡り思い出しながら喋る。まだ暖かい時期なのに真冬の様な寒さを感じ、体が強張り上手く喋れない。
「そうか…食事中に悪かったな。これは服を汚した詫び代だ。代金の足しにしてくれ。」
そう言うと女性は机の上に服代では有り余る金額を置いて去って行った」
圧迫された空気から解放された反動か、外で鳴いていた蝉の声が再び騒がしく聞こえ始めた。
「……知り合いか?」
余りの出来事に男もたどたどしく聴いてくる。
「いや、あんな人初めて見た。それこそ君は知らないのか?変わった人が来たとかの噂とか聞いてないのか?」
目をつむり腕を組みながら険しい表情で答える。
「あー…正直聞いたこと無いなぁ。あんな眼帯してたら直ぐに噂は広まるもんだが~…。遠くから来た人かもしれんな。」
「そっか…。それにしても睨まれた時は怖かったぁ〜。生きた心地がしなかったよ…。」
「鯨の幽霊とどっちが怖い?」
とニヤニヤしながら聞いてくる。
本当にこいつは性格が悪い。
「勘弁してくれ…」
「にしてもあの女性、去り際に『牛の次は鯨か』とか言ってたなぁ。何なんだろ?」
牛?鯨とどう関係があるんだ?考えても脈絡が無いで「さぁ?鯨肉でも食べたくなったんじゃない?」と適当に返答したら男は「決めた!」と言いながら席を立った。
「俺あの女性調べてみるわ!絶対只者じゃない気がする!」
「これは凄い話の種になりそうだぞ~」と言い出すとかき込むようにご飯を食べて勢いよく店を出て行った。
去り際に「お前も落ち込み過ぎずに次の職探せよ〜」と叫び消えていく。
性格は嫌いだが、心配してくれていたのは確かだった。
少し肩の荷が下りたのか、晴れた気持ちで僕は手を振りながら男を見送った。

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それから数ヶ月後、久しぶりの鯨が取れたと村中が話題になりちょっとしたお祭り騒ぎになった。

僕が船から降りたからあの鯨の幽霊は出なくなったのか。
…もしかしてあの女性が何かしたとか…?

と妄想を膨らませたが「まさか」と呟き、最初から夢のような話だったので考えるのをやめた。

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