![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86536262/rectangle_large_type_2_bf6c8f484a00e784f4b777274b56e9a4.png?width=1200)
人生転落したエリートサラリーマンが V字復活した大逆転ストーリー(第3章)
〜第3章〜 大学受験
サッカーで挫折した自分に残されたのは、勉強だけだったのです。
最初は勉強に身が入りませんでした。
なぜならば大好きな、そして自分の夢でもあったサッカーを諦めたから。
それで日々の生活に張り合いがなくなっていたからです。
しかし、テストというものは非情にも現実を突きつけるのです。
男子校であり、個人情報が今ほど取り沙汰されてない時代だったので、
順位と名前は否が応でも掲示板に貼り出される。
全ての教科で下位に陣取っていた私の成績。
サッカーもダメ、勉強もダメな自分がそこにいたのです。
成績優秀で、小学校の頃から常に誉められ、全てに優秀だった私
しかしそこには「デキナイ自分」がいたのです。
高校に入ってから、両親は私によく話してくれたのです。
「プロサッカー選手になっても、引退してからの人生の方が長いんだよ」と最初は、そんなこと関係ないと思っていたのですが、サッカーを辞めた後はどれほどその言葉に救われたか。
朝は0限補習に間に合うために6:30のバスに乗らないといけないのですが、毎日の練習や宿題の疲労でギリギリまで寝てしまうこともあり、父親が時々営業の車で学校まで送ってくれたし、土日の練習の時も、気づくと学校に迎えに来てくれていたのです。
もしかしたら、両親は私の苦痛、苦悩に気づいていたのかもしれません。
前にも書いたように、当時の私はサッカーを楽しめていませんでした。
そして勉強も多く毎日疲れていたため、私の顔から笑顔が消えていたのを、両親は気づいていたのかもしれません。
お問い合わせはこちらから
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
サッカーを辞めた私に残されたのは勉強のみ・・・
「しっかり勉強して、いい大学に入って、安定した企業に入ろう」
と次の目標を定めたのでした。
しかし、部活で疲れて予習や復習が出来ない状況が半年近く続いたので、
周りの同級生と差がついていたのも事実です。
その遅れを取り返そうと、毎日9時限授業の後は教室に残って、戸締りの時間が来るまで居残り勉強をし続けていたのでした。
それでも足りない時は、学校が提携している予備校の自習室を借りて
自主勉強をしていたのです。
(多くの現役生と浪人生に囲まれての自習)
そして次の目標が定まったのです。
「なんとしても勉強の特待生になって授業料を免除にする」
そうすれば親が喜び、誉めてくれると思ったのです。
しかし、英語の成績が一番悪く、文系専攻の自分としては必ず越えなければならない壁でした。
毎日英語に触れて苦手意識を無くそうと試み、分厚い英熟語集を毎日通学のバスで読み漁り、英単語集も隙間時間で読み漁り、トイレの中にも持ち込む程でした。
(実際に使っていた英熟語・単語集 Z会)
次第に英語が理解できると「分かる楽しさ」を感じるようになり、
英語が苦じゃなくなったのです。「幼少期の勉強する癖漬けが活きたかな」と痛感しました。私は昔感じていた楽しみをまた取り戻したのです。
その結果、私の成績は英語だけでなく、他教科もどんどん上がったのです。気づいたら、分厚い英熟語や単語集は手垢で真っ黒になっていたのです。
2年生の1学期のある日、担任の先生に呼ばれました。
「2学期から勉強特待生に認定されたぞ。よく頑張ったな」
そう言われた瞬間、「これで両親に喜んでもらえる」と飛び上がりそうな程の喜びを抱いたことを思い出すのです。
それ以降は授業料が免除され、模試では偏差値が62前後になり、旧7帝大クラスもB判定に乗るようになった私がいたのです。
私は自信を取り戻したのです。
しかし、取り戻した自信はまた一瞬にして崩れ去って行ったのです。。。
時は流れ、受験シーズン
私は特進コースのトップクラスに位置していたのです。
*私の目標は神戸大学の経営学部。
旧7帝大クラスの国立大学を目指していたのです。
そんな私に、ある日担任の先生から
「受験慣れするために防衛大学を受けてみないか?」と提案されたのです。
当時の私は防衛大学が凄い大学とも知らず、倍率もよく分からない中、気軽に受験したのです。(最近調べてみると、合格倍率は20倍以上です。)
気軽に受験したにも関わらず、あの防衛大学で「合格」していたのです。
これで自信をつけて、センター試験に臨んだのです。
5教科7科目
自分のシミュレーション通りの点数は取れませんでしたが、
志望校を受験できるボーダーラインに到達。
しかし、ここでも人生の荒波が私をその先には進めてくれなかったのです。
得意だったはずの英語が2次試験で全く歯が立たなかったのです。。。 試験の全日程が終わった瞬間に「終わった・・・」と感じた事は今でも忘れられません。結果は予想通り「不合格」。合格発表の掲示板の前で、歓喜の合格者の横で、呆然と立ち尽くしたのを覚えています。
(受験番号が無かった時、一瞬時が止まった感じがしました)
最後の望みを掛けて、後期日程にも挑戦したのですが、
一度狂った歯車は戻らず後期日程も「不合格」だったのです。
国立大学への夢がそこで閉ざされてしまったのです。
自分に残された道は
1.防衛大学に行く
2.スベリ止めの私立大学に行く
3.浪人して再チャレンジする
この3つだったのです。
正直、勉強に疲れ切っていた当時の私は、浪人生活を選ぶことは考えていなかったのです。なんと私はスベり止めの私立大学を選択していたのです。
色々な人から驚かれます。
「世間一般から見たら防衛大学に行くべきだったのでは?」
「行ったら将来が安泰なのに」と。
このブログの読んで下さっている皆さんもそう思うかもしれません。
今となっては僕もそう思います。
しかし、なぜスベリ止めの私立を選んだのでしょうか・・・?
そこには母親の思いがあったのです。
「この大学に行ってほしい」その1つの想いによって、
私はいとも簡単に自分の選択肢を決めていたのです。
そう私は母を笑顔にしたかったのです。
僕はいつしか、人のアドバイスや思いに対して意思決定をしていたのです。
「自分がどうしたいか」よりも「相手がどう思うか?喜んでくれるか?」
と言う、「承認欲求」の塊だったのです。
サッカー選手の夢や、国立大学合格への期待を裏切ったという後ろめたさも重なって、母親の思いで大学を決めたのでした。
お問い合わせはこちらから
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓