ゴッホと静物画展—伝統から革新へー【ふたつのアイリス】
【ふたつのアイリス】
1890年5月、まもなくサン=レミ=ド=プロヴァンスでの療養生活を終える頃、ゴッホは2点の《アイリス》を描いた。
ひとつは1月21日までSOMPO美術館で開催されていた展覧会「ゴッホと静物画展」目玉のひとつである黄色を背景とした《アイリス》である。
そしてもうひとつはニューヨークメトロポリタン美術館所蔵の淡いピンク色を背景とした《アイリス》だ。
同じ花が主題の絵画にも関わらずその印象は随分と違う。
ひとつめの《アイリス》は、凛々しく男性的だ。花弁も葉も姿勢良くピンと伸びていて、それを縁取る黒線は武骨に角張り力強い。右側の、一部下に垂れているアイリスは当時精神が不安定だったゴッホの心情を表しているとも言われているが、はたしてどうだろう。
《アイリス》はゴッホ自身が「互いに高めあう全く異なる補色の効果」と手紙で語ったように、黄と紫を対比させる色彩の試みとして描かれたと考えられている。その習作を描き切ったのだ。少なくとも絵画の上では精神の不安定さよりも意志の力強さの方が全面に出ているように感じる。前述した頭の下がった花は腰に下げる刀のようで、私には《アイリス》がひとりの武士に見えた。帯刀し、背筋がしゃんと伸びた雄々しい武士だ。
彼ら一輪一輪にそれぞれ命があり、個性があるだろう。それらが寄って集まり、各々が高みを目指して競争している、そんなイメージ。道場で部員たちが切磋琢磨しレギュラー争いを繰り広げるみたいに。オフィスの片隅で日毎伸び縮みしている営業成績表のように。
そんな勝者と敗者の集合体《アイリス》。彼らの日々の営みが、私の目に武士のように映ったのかもしれない。
対して、もう1点の《アイリス》は穏やかで女性的だ。全体的に横へ広がる花弁と葉。突出して高いものも垂れ落ちてしまったものもない描写が、対話的で対等な女たちの関係性を示唆しているように思える。優し気で淡い桃色の壁が、今は春で、外からは薄日がさしていて、そこここに柔らかな春の陽気が漂っていることを教えてくれている。
ところで、アイリスと混同しやすい花に燕子花(カキツバタ)がある。
ひとつめの《アイリス》を見た時、初見にも関わらず「どこかで見たことあるような?」・・そんな既視感を覚えた。
既視感の正体は、国宝 尾形光琳作《燕子花図》である。
いくら似ている花とはいえ、こうして見比べてみると全く別物なのにどうしてだろう?絵の色合いが似ているからだろうか?否、色合いは似ているようでよく見ると違う。ゴッホがつくりだすイエロー、ブルー、グリーンは南フランスアルルのローカリティをうまくつかまえた色で日本のそれとは異なる。では何が似ているのかと聞かれると言葉に詰まるのだが、絵から放たれる凛とした佇まいがふたつの作品には共通しているのではないだろうか。
もし絵画が花と同じようにそれぞれの種をその画面奥に内包しているのだとしたら、きっとこのふたつは厳密には別であってもきっと広くは同じ種類の種を持っているのだと思う。花の色合いが少し違う、咲く場所が湿地と陸地で異なる等細かな違いはあれど、ざっくりとは同じアヤメ科であるアイリスと燕子花のように。
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