猫【前編】
初めて訪れた知らない街の片隅で私はすっかり途方に暮れていた。全く出口が分からない複雑に入り組んだ薄暗い地下街を彷徨っている気分だった。そんなふうに思うとビルの壁に開いている換気装置の吸入口から吐き出される生ぬるい風すらも地下街の空調設備からゆるりと吐き出されているぬるくてかび臭い風のように感じた。
澤田はまだ見つからないのかという部長からの圧が日に日に増してきているのを感じていた。だからといって具体的な指示もなければアドバイスもない。仕方なく始めた聞き込み捜査にしても刑事ドラマの真似事に過ぎないし、こんなおままごとのような人探しの真似事をしているだけで澤田さんは本当に見つかるのだろうか。そもそも澤田さんは本当にこの街にいるのだろうか。そもそもなぜ澤田さんは行方をくらましているのか。そしてなぜ私が澤田さんを探さなくてはならないのか。
そもそも私と澤田さんの間には殆ど面識がない。隣の課の澤田さんとはすれ違い程度に挨拶を交わす程度だし、言葉を交わした記憶もない。もしかしたら社内行事でひと言かふた言なら話したこともあったかもしれないけれど、その程度の関係なので街中ですれ違ってもきちんと気づくことが出来るのだろうか。そう考えるとすこし心もとない気がした。
「やれやれ」と村上春樹を気取りながら、私は近くにあった神社の境内のベンチに腰掛けた。境内に人は誰もいない。こじんまりとした神社だが木造の社殿には風格があった。綺麗に手入れされている境内の様子からも由緒ある神社なんだろうと思われた。
朝食べて半分残していたサンドウィッチをカバンから取り出して食べようとしたその時、目の前に現れた野良猫と目があった。
私は猫が苦手だ。ニャーという鳴き声も薄気味悪く感じるし、音もたてずにすばしっこく動くさまも油断ならないように感じる。どこにでも匂いの強い排尿をするし迷惑この上ない。それに猫だけでなく、人間も含めて生き物全般が苦手なのだ。いや、その中でも一番苦手なのは人間だろう。人間という生き物は面倒なことこの上ない。そんな私でも人寂しくなることもある。そんな時は脳内に住み着いている優くんという彼氏と会話をすることにしているが、これが意外と楽しいのでますますリアルな人間づきあいを敬遠するようになってしまった。
数メートルは離れた場所からじっとこちらを見ている野良猫と目を合わさないようにこっそりサンドウィッチをかじろうとしたその瞬間、いつの間にか足元に来ていた野良猫が話しかけてきた。
「ひとを探しているんだろう?」
その猫が話しかけてきた。それも心に直接話しかけてきているようだった。
「えっ、なぜわかるんですか?」
私は猫が人の言葉を話したことにではなく、私が人探しをしていることを猫に見破られたことに驚いた。何故だか分からないが猫が心の中に直接話しかけてきたということには全く驚きもしないし疑問も持たなかった。疲労困憊していたせいで、まともな判断力がなかったのかもしれない。
そんな私に更に猫が話しかけてきた。
「おまえが余所者だからだよ。それにこの前も繁華街をうろうろしていただろう」
どうやら前からこの猫は私の存在に気づいていたらしい。私はその猫の姿をまじまじと眺めた。黒に白のハチワレで、どうにもよく見かける猫よりもだいぶ大きいように思える。私はその猫に話しかけてみることにした。
「そうなんです。ひとを探してるんです。澤田さんっていう三十代の男性なんですけど」
猫が表情を変えずに口をひらいた。鋭く尖った牙がみえた。この牙で噛まれたら相当痛いだろうなと思い身震いがした。
「その人なら知ってる。マ・ドンソクによく似たひとだろ」
「そうです!なんで分かったんですか?」
私は驚いて思わず大きな声をだしてしまった。
「ついさっきまで一緒にいたからね」
猫がふん、と得意げな顔をしたような気がした。
ここまできたら借りれるのもなら猫の手だって借りたい。
私は興奮したあまり食べかけのサンドウィッチを地面に落したことすら気づかなかった。まさかこんなところで野良猫から澤田さんの居場所を知る手がかりをもらえるとは思ってもみなかった。澤田さんの後ろ姿がはっきりと見えた気がした。神社の境内で会ったぐらいだからこの野良猫は神の使いなのかも知れないと思った。
「あいつも余所者だからな。ついさっきまでこのベンチに座っていたから話しかけたのさ。何か訳ありなんだろう」
猫があくびをした。それから口をもごもごさせると私の顔をじっと見た。
「もしかして澤田さんは何か言っていませんでしたか?」
猫が私の顔を見上げて言った。
「何かって、何をだい」
猫はそれだけ言ってから前足の毛づくろいを始めた。さすがに猫だけあってマイペースだなと私は変なところで感心した。
「なんで逃げているのかとか、これからどこに行くのかとか、そういうことです」
そう話しかけると猫がひょいと顔をあげて私をみた。
「なんで逃げているのかは聞かなかったさ。面倒なことだったらいやじゃないか」
猫にも面倒なことなんてあるのだろうかと思った。でもたしかに縄張り争いだとか、もしかしたらもめごとの仲裁なんていうこともありそうだ。
「でも、行先なら知っているぞ」
唐突に猫が言った。しかもそれは私が一番知りたいことじゃないか。
「これから先どこに行こうか悩んでいたからな、俺様がアドバイスしてやったんだ」
私は興奮した。まさかこんなところでこんな形で幸運が舞い込んでくるなんて思ってもみなかったからだ。もしかしたらすぐに地元に帰れるかもしれない。なにしろ澤田さんを探す旅に出てからもうすぐ三か月になるのだ。我が家に早く帰りたい。普段は早く結婚しろとうるさくて仕方ない両親の小言も染みが付いた部屋の天井も狭いベッドもすべてが恋しくてたまらない。
「ささ、澤田さんはどこに向かったんですか?」
すると猫が随分とふてぶてしい様子で私をじっとみた。
「その人の行き先を教える前に、何か食わせてくれよ」
何が食べたいのかと猫に訊ねると、港の近くの市場で新鮮な魚を買ってこいという。スマホで調べてみるとその市場はこの場所からは歩いて二十分ほどの場所にあった。
「必ずここで待っててくださいね!」
私は念押しするようにして猫に言った、そこから一目散に市場に向かおうとして大通りに出てタクシーが来るのを待った。だが待てども待てどもタクシーが一向に捕まらない。ようやくタクシーが来たと思いきや、はやる気持ちの私をからかうかのように自動車学校の教習車が目の前を通り過ぎて行った。
歩こう。二十分なら歩ける。私はは学生時代は陸上部だった。脚には自信があった。
それにしてもなんてついているんだろうと思った。右も左も分からない土地で靴の踵をすり減らしながら一生懸命歩き廻った甲斐があった。神様がきっと観ていてくれたに違いない。それにしてもまさか猫に助けられただなんて、こんな話をいったい誰が信じるだろう。そんなことを考えながら急ぎ足で歩いていると少し先に紫色の看板の大手スーパーがあるのが見えた。
市場にはまだ十分以上はかかるだろう。季節はもう初夏で、日差しも強い。速足で歩いていたから身体が火照り身体中が汗ばんでいた。
このスーパーで買えばいいんじゃないか。心の中で誰かがそっと囁いた。
だって、何故わざわざ市場で買った新鮮な魚でなければ駄目なのか。はたして野良猫に市場で買った魚とスーパーで買った魚の違いがわかるのだろうか。猫に頼まれたとおりに市場に行かなければという思いと、このスーパーで買ったってどうせ野良猫には分からないだろうという思いの狭間で私は悩んだ。額には汗が滲み、これから先も十分はこの暑さの中を歩かなければならないかと思うとうんざりした。
店の入り口の前に立つと、モーターの重い音を響かせながら仰々しく自動ドアが開き、五月の上高地のような心地よい空気が私の身体をすっと冷やしていく。
私は急いでタラの切り身を買うとパックからビニール袋に移し替えて急いで野良猫のいる神社に戻った。
神社に戻ると野良猫は社殿の日陰に寝そべっていた。私の姿をみると足音を立てずに近づいてきて、足元にすっと寝そべった。私はその場にしゃがんで緊張しながらビニール袋からタラの切り身を出して猫の前に置いた。市場で買ったものではないとばれたらどうしよう、なんだか急に不安が押し寄せてきた。やっぱり正直に市場まで行くべきだったんじゃないだろうか。
「助かったぜ。腹ペコだったんだ」
猫はそう言いながら、三ツ星レストランでのディナーの最初の一皿を待ちかまえていた老紳士のように、上品な所作でスーパーで買った魚をさも美味そうに食べた。どうやらスーパーで買った魚だということはバレていないらしい。私はほっとした。あとは澤田さんの行方を聞けばすべてが終わる。
そして猫が私の顔を見てしゃべり始めた。
「おまえが探している男はニャ、ニャニャニャ」
えっ?どうしたの?いったい何が起きたのだろうか。ついさっきまで人間の言葉を話していたのに、なんで急に人間の言葉を喋らなくなったんだろう。お願い猫さんちゃんと話して!とわたしは勘の悪い舞台俳優を怒鳴りつける老演出家のように叫んだ。
猫は二度と人間の言葉を話すことなく、猫語をニャーニャーと喋り倒して境内の茂みのなかに姿をかくして、それきりもう姿をあらわさなかった。
ボツ作の書き直しです。