龍は本当にいるんだよ【掌編】
みるみるうちに黒い雲で空が覆われ、まだ昼過ぎだというのに夜のような闇が迫ってきた。生ぬるい風が私の頬を撫でて髪の毛を揺らした。いまにも雨が降り出しそうな空模様だった。
「急ごう」
鄭強が言った。そう言うや否や、鄭強が私の手を握った。それはとても自然な動きだったから、私は鄭強に手を握られたことに気づく暇もなかった。
狭い路地裏を小走りで進む。道端の露店は店じまいを始めている。
角を曲がったところで急に目の前の視界が開けた。
灰色の空が映画館のスクリーンのように目の前に広がり、土が耕されたままの黒色の農地が見渡す限り遠くまで広がっていた。土の匂いや草の匂い、そして生ぬるく湿った空気の生臭い匂いが風に運ばれてきた。はるか遠くに山並みが霞んで見えたけれど、山々の頂は黒い雲に隠れて見えなかった。
私達はしばらくそこに立ち止まったまま目の前にひろがる景色に目を奪われていた。そこではじめて鄭強の手が私の手を握りしめていることに気がついて、急に恥ずかしくなった。
百メートルほど先の路地に鄭強の青いフェラーリが停まっているのが見えた。
「もう行こう」
鄭強がそう言った瞬間、黒い雲の隙間から青白い光が強く光った。
雷だ。そして大粒の雨が私の肩にあたるのを感じた。服に食い込むような重たい雨粒だった。鄭強の着ていたベージュ色のジャケットに雨粒が濃い染みをつけていく。
私は鄭強の横顔を見上げた。裕福な華僑の男。私よりも三十センチは背が高く、端正な横顔を持つ男。彼の身体が動いて、繋いだ手に力が篭もるのを感じたその瞬間、鄭強の顔に青白い光が映えた。
「優希、空をみろ」
鄭強が立ち止まった。私は鄭強につられる様にして空を見た。黒くて深い雲の隙間から青白い閃光がまるで壊れかけの蛍光灯のように放たれては消えた。
「怖いよ、早く行こう」
私は雷が怖かった。私達が立っているところまで雷が届くのではないかと思うと怖くてたまらなくなった。
「ここには落ちない。遠くだから大丈夫」
鄭強が自信に満ちた声で言った。稲光は見えるけれど音は聞こえない。きっとかなり遠くで光っている雷なんだろう。
雨はさっきよりも強さを増して、私たちの服の表面が充分に湿るほど濡れていた。でも鄭強は雨に濡れるのを気にも留めないかのようにその場に立っている。
「ねえ、はやくクルマに戻ろうよ」
そう言いかけた瞬間、とても強い光が遥か遠くの空を上下に真っ二つに切り裂くようにして水平に走った。とても強い光を放つ、見たこともないような大きな稲妻だった。
私は驚きのあまり声を失った。大きな稲妻が空を上下に切り裂くようにして真横に走るのを見たのは初めてだった。本当に空が上下に真っ二つに裂けたように見えたのだ。
「凄い」
雨に打たれながら呆然と立ち尽くす私に鄭強が言った。
「優希、君はいま龍を見たんだ。な、龍って本当にいるんだよ」
鄭強はそう言って笑い、そのとき彼の前髪からしずくが落ちた。
「もう一度龍に向かって願い事をしよう」
そして二人は手を繋いだまま雨の中、もう一度龍が姿を見せるのを待った。
そんな二人の願い事は、きっと同じなんだろう。
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ここまで書いた順番で公開してきました。この間にボツ作が1作あります。いずれ書き直せればと思っています。