椋鳥【掌編】
金沢に着きホテルにチェックインした頃には街はもう薄い藍色の闇の中に沈みこもうとしていた。ホテルの裏手の路地裏にはひと気があまり無く、闇は一段と濃くて深くて、その闇の中に住居の灯りが一つまた一つと灯りはじめていた
ホテルで少し休憩してから、繁華街から離れた主計町の辺りで夕食をとった。食事を終えて浅野川沿いを散策しながら、お盆休みなのにずいぶんひと気が少ないと思った。何度か訪れている金沢の印象とは随分と違い、やけに静かな夜だった。空気が凪いでいて蒸し暑い。道端から川を見下ろすと月明かりが微かに水面に映えて川の流れに揺られていた。
折角の旅先の夜だからもう少し楽しみたい。まだそれほど夜も更けていないし、ホテルに戻る前に以前訪れたことがある片町のバーに寄って帰りたいと夫に頼んだ。夫も賛成したので、タクシーを拾い片町に向かった。
バーは空いていた。柔らかい色の照明が控えめに照らす薄暗い店内には、わたし達の他にはカウンターに五十代くらいの男性客ひとりしかいない。カウンター越しには所々に磨きこまれた真鍮の飾りがあつらえられた立派な棚があって、よく磨かれたシングルモルトウイスキーや色とりどりのリキュールのボトルが並べられている。わたし達はカウンターの端のほうの椅子に座り、夫はギネスビールを、わたしはジンフィズを頼んだ。
しばらくするとその男性が、どちらから来られたんですかと話しかけてきた。夏なのに何故かダークグレイのウールのスーツを着て、黒いハイネックのニットを着ている。一瞬奇妙に思ったが、きちんとした身なりのせいか怪しい感じはしなかった。夫が大阪から来たと答えると、それは遠路から遥々とその男性が言った。
その男性との会話は当り障りのない二言三言で終わったが、その男性が帰り際に、香林坊の辺りにお泊りならば、よかったら武家屋敷の方を通って帰られるといいですよと言った。夜の武家屋敷の界隈は人もいなくて静かで、おまけに幻想的ですから、という。
武家屋敷の界隈といえば有名な観光地だから、その界隈には今でも人が住んでいるのか気になった。そのことを夫が訊ねると、観光地のようになってしまった旧い街ですがいまでもいろんな人が生活していますという。
だから騒いだり、塀の中を覗き込むようなことはしないほうがいいと男性は言った。わたし達は男性に礼を言い、男性は会釈をしながらお盆ですからねと言い残してさっと消えるようにしていなくなった。
あまり意識はしていなかったのだがだいぶ疲れていたのだろう。ジンフィズを一杯飲んだだけでずいぶんと酔った気がした。夫はギネスを二杯飲んだだけでまだ飲み足りない様子だったので、わたしだけ先にホテルに帰ることにしたが、心配だから一緒に帰ると夫が言ったので、結局ふたりでホテルに帰ることになった。
店を出て、大通りに出るつもりで歩き出したが急に思い立って、折角金沢に来たんだからさっきの男性が言った通りに武家屋敷跡を通ってホテルに戻ろうと夫に言った。
それだとほんの僅かだが遠回りになるし、酔っているのに早く帰らなくて大丈夫かとでも言いたげな顔で夫はわたしを見たが、わたしの様子をみて心配ないと思ったのだろう。勢いよく流れる大野庄用水沿いに歩き出した。
昼は観光客で賑わう一帯だが深夜にもなると人通りは全くない。静まり返った深夜の街に用水の流れる水音だけが響いている。空気が凪いでいるので蒸し暑い夜だがこの辺り一帯だけは空気がひやりと感じられた。用水は水かさが踝あたりまでしかないので、裸足になって浸かったら気持ちよさそうだと思った。ときおり静寂を破るかのように何処かで鳥が鳴く。
用水沿いに暫く歩くと段々と景観が旧い街並みらしく変化してきた。用水を挟んだ向かい側には茶色い土壁が続いていて、どうやら立派な屋敷のようにみえた。塀の上からは庭に植えられた木のうっそうと茂った枝葉がせり出していて、塀の中にある建物の姿は外からは拝むことが出来なかった。そして用水にかかる小さな石造りの橋を渡ると旧い屋敷町に入り込んだ。
暗闇の中に石畳の狭い路地が真っすぐにだいぶ先まで延びて、路地の両側に茶色い土壁の塀が延々と続き、家々の門に吊るされた柔らかい色の灯りが石畳の道を僅かに照らしながら、狭い路地沿いに向こうまで連なる様子は浮世離れしていてとても幻想的だった。
ここには夫とわたしの二人だけしかおらず、辺りは静まりかえり物音ひとつしない。隣接している繁華街の喧騒すら止んでしまったかのような静寂が周囲を包みこんでいる。
一瞬だけ立ち眩みがして意識が遠のいたような気がした。日常からはかけ離れたかのような目の前の景色に酔ってしまったのかも知れないとおもった。そして現世ではない旧い時代の金沢に迷い込んでしまったような薄気味悪い気持ちが湧きあがってきて、急に心細くなったわたしは夫の手を強く握った。
お前も疲れているんだから早く帰ろうと夫が言って、わたしの手を引いて歩き出した。その瞬間、何処かの屋敷から雅楽の響きが聞こえてきた。
十歩ほど進んだ先にある屋敷の潜り戸が半分だけ開いていて、そこから太鼓や琵琶、笛の音が漏れ聞こえていることに気がついた。思わずわたしは夫から離れて、吸い寄せられるようにしてそこに近づき、中を覗いてみたが暗闇の中に家屋の影が浮かぶだけで他には何も見えない。
暗闇に浮かぶ家屋の影に目を凝らすと、僅かに戸が開いていて、音はそこから漏れ聞こえているようだった。だがそこから奥は一段と暗くて何も見えない。
おい、もう帰るぞといいながら夫がわたしの腕を引っ張った。だがわたしは開いた戸から漏れ聞こえる雅楽の響きに囚われてしまったかのようにそこから動くことが出来ない。
太鼓の音がトンと響き、笙の音が暗闇に響く。か細い笛の音が不安定に揺れながら闇に吸いこまれていき、すべての音がスンと鳴りやんだ瞬間、わたしは僅かに開いた戸の5センチほどの隙間から見える暗闇の中に何かの気配を感じた。
「あっ!」
戸の5センチほどしかない隙間に顔を挟まれたようにしてこちらを覗いている細い目の女と目が合った。顔の他には姿がみえず、まるで顔だけが宙に浮いているようにみえた。
わたしはのけ反るようにして後ろに下がり尻もちをついて、周りを見回してどこかにいるはずの夫を探した。立ち上がって周囲を見回してみたが夫の姿は見当たらなかった。
空き地の向こうに建つ雑居ビルの非常階段の踊り場で、派手なドレスの女と黒服を着た男が抱き合っているのが見えた。男が身体を動かした拍子にピンヒールを履いた女の足がビールのケースを蹴り、空き瓶がぶつかり合う音が派手に響いた。
まるで何かの合図のようにどこか遠くで犬が吠え、ムクドリが鳴くのが聞こえた。