進化論という宗教
まだ小学校に上がらぬ幼い頃、母が私を「可愛い」と言って、抱き締めてくれた。
私はそこで、ふと疑問に思った事を口にした。
「もし僕が可愛く無く成ったら、御母さんは僕を可愛がってくれないの?」
母は一瞬キョトンとしたが、すぐに
「御母さんは○○(私の名前)が大きく成っても、どんな風に育っても、ずっと可愛いと思うよ。だって、御母さんは○○の御母さんだから。」
と言ってくれて、私は安心して、その時は母に甘えるのを続けた。
しかし。
それは嘘だった。
中学を卒業してあの宗教の集会に行かなく成ると、母は私を邪険に扱い始めた。
なので私はまた、疑問に思っている事を口にした。
「御母さんは僕の事を可愛いと思わなく成ったの?」
すると母はこう言った。
私はこの言葉を永遠に忘れないだろう。
「○○に可愛い所なんてあったの?教えて欲しいんだけど?」
所詮、「子供を産みたい」とか、「子供が可愛い」なんて、ただの本能である。
この時代の人間はそれを「進化」」と呼んでいる。
本能という「一時の感情に任せて」、子供を産み、子供を可愛がり、少し大きく成ると、「感情よりも大きな現実に負けて」子供を死なせる親達。
これも、「進化」とやららしい。
「子孫を残す為に進化した」のに、「進化したら子孫を殺し始めた」。
なのに、「進化したから人間は賢い」らしい。
また、人間は。
自分達を苦しめる格差を造り出す、金銭という物を産み出し、これも「進化」だと言う。
金の為に人は働き、金の為に人は見下され、金の為に人は食えなく成る。
そして、金が無いと人は死ぬ。
なのに、「進化したから人間は賢い」と言う。
事実、進化論は未だに「正しいという証明が為(な)されていない」。
発掘された骨には、「猿寄りの骨」と、「人間寄りの骨」は幾らでも見つかるのに、何故か、「人間と猿の丁度中間の骨」は存在しない。
猿と人間には決定的な差が存在する。
それは、脳の大きさである。
人間は猿よりも脳が大きい。
成人した人間の脳の大きさは、猿の約三倍の大きさである。
にも関わらず、発掘された骨には、「人間と猿の中間の脳の大きさの頭蓋骨」というものが、未だに発見されていない。
しかし。
この時代の人間の多くは、そんな事実は一切見ようもせずに、「進化論を信じている」。
一方では、「神は科学的では無い」などと言って、神を信じる者を馬鹿にする。
神が存在する事も、神が存在しない事も、「科学的な証拠は無い」にも関わらず、何故か「存在しないという事は信じている」。
片方では、「進化した科学的な証拠は無い」にも関わらず、何故か「進化した」事は信じている。
そう、「神」も「進化」も、どちらも科学的な証拠は無いにも関わらず、「進化論は信じている」。
頑なに、信じている。
それはまるで、宗教である。
しかし、この時代の人間達の大半は信じているのだから、誰もカルト宗教だとは気付かない。
信じている内は、どんなカルト宗教だろうと、信者には真の宗教に思えるのだ。
そして今日も人は、「進化論」という宗教を信じて、「この世界を支配する教祖様」に、金と労力と幸せという御布施を支払っている。
「自分達は進化して賢く成った」という幻想にしがみ付きながら。
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