おそ松さん第二期25話(最終回)感想

ついにやって来た最終回。事前の予想とか考えてたこととか案の定全部叩き潰された展開でした。何はともあれ笑うしかない! 笑うことこそ彼らへのはなむけです。

普段私、このnoteでも散々松は地獄だ地獄だって書いていましたが、その地獄を明るくコミカルな昭和テイストで描ききってしまった最終回でした。

全体的にネタバレ感想なので長いですけど、純粋な最終回の感想の他に最後の『一期~二期総括』が特に長いです。総括はマイナス面も含めて語っているので本当に何でも大丈夫だよって人だけ読めばいいし、飛ばしても問題なしです(一応ポジティブな結論のつもり)。

地獄のおそ松さん

前回最終回タイトルが出されてなかったのでどんなタイトルになるかと思いきやまんまですよ。何というかこのタイトルも……昭和。

冒頭は前回おそ松が何かを言い出そうとした続きから。しかし、おそ松が口を開こうとした瞬間、宝探しのセスナを独り占めしたイヤミが松野家に墜落。二期24話でのおそ松の決意が強制キャンセルされてしまうのです。

これにより六つ子たちは全員死亡。あの世へ叩き落されます。……何書いてんだろと自分でも思いますがそのままだから仕方ない。開始五分もたたないうちに死にました。

■ギャグ世界における「キャラクター」としての限界と死

各々の個性的な着こなしは残しつつも、白装束に身を包み『おそ松さん』となってからつけられたキャラクターとしての最大の個性である色を失っています。彩度の低いあの世では何もかもが褪せていて六つ子たちの個性も見分けが大変つけづらいです。これはまさに「キャラクター」の死なのだと私は感じました。

あの世についた途端六つ子たちはいきなりメタ視点全開。

「でもまぁしょうがないんじゃない。だって今日で最終回だもん。今日でもう終わりだからね」(一松)

「確かにな。最後だから死ぬしかないか」(カラ松)

「そりゃ死ぬか~」(十四松)

とこんな感じで与えられた立場を笑顔で受け入れてしまいます。そこにいるのは「キャスト(演者)」としての六つ子たちの姿です。「キャラクター(登場人物)」のしての彼らはもはや死んでいてそれはどうしようもない事だと分かっているかのようです。だって最終回なのだからと言わんばかり。二つ前の回で「あと二回だから頑張って!」と言われたのがようやく終わったのですよね。

しかしそんな中ただ一人怪訝な顔を続けるおそ松。

「俺ものすごく大事な事を忘れちゃってる気がするんだよね……。なんかお前らに言わなきゃならないことがあった気がするんだよ」

なんとおそ松は死の直前に言おうとしていた決意も何もかもすべて忘れてしまっていました。この先の内容にかかわることなのであえて先にネタバレしますがおそ松は結局この話の最後までその「言わなきゃならないこと」を思い出さないまま終わります。思い出さないまま終わったという事が逆におそ松のこの決意がギャグアニメのキャラクターとしてはあってはならない至極真面目で「ちゃんとした」ものであったことの証明になるかもしれません。

色々な考え方ができますが、私は六つ子たちの死因はこの「ちゃんとした」ことが原因と考えています。それぞれが松造の病をきっかけにキャラクターとしての枠を越えた成長を始めていたところにおそ松の決意。赤塚ギャグワールドで生きていくうえでの限界を迎えたのです。

リセットの引き金が前々回の話で平成ギャグキャラとしての限界を語っていたイヤミなのが納得。23話であまりにもクズのエリートすぎるとおそ松たちにののしられていた彼がまさに指摘された通りの行動をしたことで彼自身も平成の『おそ松さん』ワールドに相応しくないとみなされ同時にキャラクターを殺されたのかもしれません。アニメ本編の強制修正力と私は解釈しました。

一期の否応なしの手紙焼却と比べると、なぜキャラクターが殺されたのか、なかったことにされたのかの因果が分かりやすい分納得はしやすいとは思います。一期のは本当に「制作者都合」としか説明できない乱暴なものだったし実際そうだった。でも二期ではおそ松が自身の言葉で引導を(我知らずではありますが)渡してしまった。それは「自分の事は自分で決めたい」と言っていたおそ松の言葉図らずも実現した瞬間でもあったのです(意図した形ではないですが)。

あと一期の場合はそれまでの展開が丸ごと無きものにされてしまったのですが、二期ではあくまでお話の途中で死んだという体が取られており作中ではっきりと「お葬式」が行われています。「長きに渡るニート生活がほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに本当に残念です」というトト子の弔辞はたとえ道半ばで終わったとしても二期24話での皆の頑張りは確かに存在していたという事をはっきりと教えてくれます。そこが一期との最大の違いです(注記:ちなみにこの弔辞。かの赤塚先生のお葬式でタモリさんが先生に捧げた弔辞冒頭に内容が酷似しているのを確認しました。死すらもギャグにするという赤塚マインドの継承といえるシーン) 。

あの世の裁判所にいたのはかの聖沢庄之助。二期は全く登場しなった彼は実は閻魔だったと明かされます(実に後付)。ここで重要なのは彼が六つ子たちの日常を「一期」からずっと監視してたと明示されることです(一期のニューおそ松兄さんとなっている時の絵が出ていることからわかります)。その上で六つ子たちの行く末を決めているという事は一期~二期に確実な連続性があり六つ子たちの今に一期からの積み重ねがちゃんとあることを示唆しているのです。

一方、六つ子たちのお葬式は着々と進行しついには出棺の時を迎えています。そのお葬式の様子は実に乱雑で適当。御棺はナンバリングされてるいるわ月見団子のごとく積み重ねられているわ、遺影は六人いっしょくただわ、出棺の際は投げられるわ転がされるわ、挙句の果てには軽トラで火葬場行きです。

これは最終回を迎える二期25話の様子を暗喩したものでしょう。ギャグアニメだから深刻に最終回を行うわけにはいかない。無理にでもおどけなくてはならない。でも軽トラで御棺が運ばれていったあとは出席者も両親もそれまでのあっけらかんとした様子から一転表情を曇らせ、この明るい最後が表面的なものである事を匂わせています。だって最終回寂しいもんね!!(私も寂しい)

■「地獄」とは何なのか?

結局六つ子たちは抵抗空しく地獄に落とされる訳ですがそのそもこの二期25話で描かれる「地獄」とはなんなのでしょうか。

地獄に落とされた六つ子たちはオーソドックスな地獄の責め苦の他に自身のキャラクターとしての恥部をえぐられるような辱めを受けています。そしてそれらの責め苦を受けることで輪廻転生できるようですがその回数実に八京六千億。普通に考えて実現不可能と言っていい数字です。

六つ子たちが元いた現世がアニメキャラクターとしての表舞台としたらこの地獄は忘れ去られたり使えなくったキャラクターたちのまさに墓場なのだと私は思いました。ですから一見悪い事とは無縁に見えるキャラもいたりします。

最後の方に出てくるのですが、一期の花の精や、ドブスフラワー、コーチ松など、そして二期のキャラでも合コン回にいたミワちゃんクミちゃんや、宇宙海賊回のキャラ、曹操にマイコマツなどどう考えても今後は登場しないだろうと思われる人が地獄にはたくさんいます。一番分かりやすいのは木村出代音(ダヨーン)ですね。二期ダヨーンはお葬式にちゃんといて現世に存在していますが、23話で存在を殺された彼は既に地獄にいるというのがこの世界の意味合いを分かりやすく示しているのではないでしょうか。そう言えば何気にプロデューサーさんも死んでた(苦笑)。制作者たちすらもはや死に体です。

地獄にも現世にもいないキャラも若干いますが単に描写がないということかもしれない。お葬式に来なかったキャラは二期で六つ子との絡みが薄かったけど今後も登場の可能性があるよという事で前向きにとらえるといいと思う(例:あつしくん)。あと照英さんとかは普通に三次元に存在してるからキャラクターの死もクソもないんですよね(照英さんは現実世界に帰りました)。個人的にはダヨ子ちゃんが描かれなかったのが寂しかったのできっとあつしくんのように今後どっかでチラリと登場するのかもしれないって思っとく!(スタッフが単に描き忘れた可能性も捨てがたい)。じょし松、げんし松さんのような六つ子内に未だ内在されてると思われる派生キャラも今回は登場していません。

終りの見えない責め苦に疲れ果てた六つ子たちの前に現れたのは一期一話で登場したF6の姿。思えば二期になってから未登場だった彼らもキャラとしてすでに死んでいたようです。そもそもF6は一期一話そのものがお蔵入りになっていて、その成り立ち自体が抹消されたキャラですものね(最近は2.5次元の松ステなどでご活躍ですっかりアニメ六つ子から独立してますし)。そう考えるとギャグアニメキャラの地獄に相応しい。ついでにチャントシターも死んでました(トド松の「ロボも死ぬんだ」に爆笑)。六つ子たちの華やかな夢の投影であるF6の凋落は彼らのメンタルに致命傷を与えるに十分でした。ついに六つ子たちは輪廻転生をあきらめ真の死に向かおうとします。

安らかに眠ろうとする六つ子たちの耳元に聞こえてきたのは懐かしいイヤミの声。

「どいてちょ! お宝が待ってるザンス! ミーは宝探しに行くザンス~!!」

なんとこの男死してなお「キャラクター」としての自分を見失っていない。死のうが地獄に落ちようがイヤミはイヤミ。さすが昭和の時代から築き上げていた確固としたキャラがある男は格が違います。自分自身である事を欠片も諦めたりなんかしないのです。圧倒的安心感。

そんなイヤミの姿におそ松は思い出すのです。「自分の事は自分で決めたい」とかつて思った決意の事を。そのすべてをあきらめていた事実をです。

そして彼は弟たちにこう告げます。

「俺たちって地獄に落とされて何か色々諦めちゃってるけど、まだ全員……童貞じゃなかったっけ!?」

おそらくここでおそ松が語った「思い出した」事は死ぬ前に言おうとしたこととは別だと思います。現にこの発言に対しチョロ松が「死ぬ直前に言おうとしてなかった? あれの続きはどこ行ったのかな!?」とツッコミを入れています。しかしそれはこのアニメがギャグである以上永遠に封印され決して聞く事のできない言葉です。ここでおそ松が発した言葉はその意思の残骸。死ぬ前に自立を果たし、無職ニートではなくなった彼らに最後に残ったキャラクターとしての「設定」です。「キャスト」としての自分たちが忘れてしまった「キャラクター」としての自分を取り戻そうという叫びなのです。

まあ正直「童貞」という属性をギャグとして笑うという事自体はこのご時世そんな面白いネタじゃないよな……という思いはありますけど、それは今回の本題ではないので横に置いておきます。

弟たちはこのおそ松の素っ頓狂な言いざまになぜかあっさりと納得し、自分の「キャラクター」を思い出しますが、最後に一人チョロ松だけが食い下がります。それはお前の本当に言いたかったことなのか? 本当にそれが一番大切なのか? と。思えばチョロ松は一期24話で己の真剣な思いを制作者側に強制的に燃やされた男なのです。伝えられないという事実に対し敏感のは当然だし、あの時一番自分の意思を伝えたかったであろうおそ松が、二期24話で自立を選んだ時なにを伝えようとしていたのか一番気にするに決まっています。その事実が無視されなかったのは良かったです。

しかし、そんなチョロ松も結局は「今はそんなクソくだらねぇことどうでもよくね? おれ達童貞のまま死んだんだよ。そっちの方がはるかに重要だよね?」という一松の言葉に我に返り(?)納得してしまいます。

ギャグの限界を越え一人の青年となったおそ松が何を決意していたのかはもう一生闇の中ですが、どんなことがあってもキャラクターとして生き続けるという決意だけは本物だし、その目的の為には「童貞を捨てる事」が最重要課題になるのもやむなし。そうおそ松が判断したのなら「そっちの方がはるかに重要」というのも仕方ない。これはギャグアニメのキャラクターとしてしか生きられない彼らの限界を明示すると同時に、それでも最後まであがいて醜くても現世しがみついてやるという彼らの宣戦布告でもあるのです。

一方現世にいるチビ太やトト子たちも時を同じくして赤塚先生の遺影に「諦めきれねぇよ」「お願い、先生!」と六つ子たち復活を祈っていました。現世(赤塚世界)によみがえりたいという六つ子たちの思いと、告別式にいるチビ太たちレギュラーキャラの六つ子たちへの愛着(ひいてはこれを見ている視聴者である我々の愛)が重なった時奇跡が起こります。光の中から創造神、赤塚不二夫先生が六つ子の前に現れたのです!!

お釈迦様よろしく天国と思われる場所から蜘蛛の糸を垂らしてくれる赤塚先生。しかしそう簡単に逃れることはできません。必死に逃げる六つ子たちを笑う赤塚先生の姿に逆に救われます。だってギャグは笑ってもらわないとただの寒い滑り芸ですからね。

六つ子の復活に現世から現れたレギュラーキャラたちも力を貸します。そして地獄にいるF6、チャントシターも六つ子たちを助けるのです。「君たちに終わられたら困るんだよ」「我々は一心同体だ」と。かつてこぼれ話集2で通常六つ子たちでは発進させることの出来なかったチャントシターを「ちゃんとしてる」六つ子の化身であるF6が操縦するというのが胸熱ですね。他にも地獄にいるかつて葬られた設定の残骸であるキャラたちが六つ子を助けます。実松さんが車を飛ばしてくるシーンでは私も「やっぱりお前死んでたんかーい!」って十四松同様つっこんでしまいましたね(実松さんの中の人が十四松の中の人と同じなので本人が本人にツッコミ入れる構造になってるのがなおおかしい)。

しかし、蜘蛛の糸は六つ子を邪魔するイヤミとの争いにより無情にも切れてしまいます。元々の創造神である赤塚先生はこれ以上六つ子たちを助けることはできないのです(だって死んでるし)。(余談ですが、他レギュラーと違い、死んでる六つ子たちを復活させてやろうとかいう観点がそもそもないイヤミに「キャラクター」としての信頼感がますます増しますね。彼は本当にすごいキャラだ)

最後の最後で六つ子たちを現世に返してくれたのはチャントシターによるちゃんとした力。完璧な変身バンクと、懐かしのサンライズパースを駆使した攻撃で六つ子たちを現世に向かって逆転満塁さよならホームランしてくれるのです。設定上「ちゃんとする」事ができない六つ子たちに変わり捨てられたF6がその役割を肩代わりするという。これは一期の最終回では結局打つことのできなかったホームランを一期から積み重ねにより実現したというシーンでもあります。

ギャグアニメはどうしても一話一話の設定が使い捨てになる傾向があるしお話はループするのでそこにあった成長や、物語も一見無駄なように思えるのですがそれを「無駄じゃなかったよ」と言っているようにも見えます。二期一話のように燃やされていった世界や設定にも確かな意味は存在するのです。今の彼らを生み出した大元は赤塚神ですが、二期を経た時点で彼らが存在するのは一期から積み上げてきた新しい絆なのだという事を視聴者に見せてくれています。

そもそも赤塚先生がいるのはおそらく「天国」であって「現世」ではありません。あのまま蜘蛛の糸によって助けられていても六つ子たちに待っているのはキャラクターとしての平穏な死であり、現世へのよみがえりではないと思います。どちらがいいのかはさておき、自分たち自身の積み重ねで現世(アニメの表舞台)に戻ったという事は一期で赤塚80周年記念アニメとして始まった成り立ちを一度断ち切り今一度新しい作品としてよみがえったという事でもあります。今までにあったキャラ付けを再び失ったり再生しながらどんな姿を見せてくれるのか。そういう意味で先を見たくなる最終回であったと思います。

■一期~二期の総括 ——制作者の葛藤と目指すもの——

こうやって感想を書いてみるとなんだか私が手放しで一期最終回での不満点を二期が解消してくれた! と大歓迎しているように見えるかもしれません。しかし、それはそれとして実のところ私がギャグとして面白いなってより思えたのは実は一期最終回の方なんですよね意外な事に。一期と二期の最終回にはそれぞれの良さがありどちらも好きではありますが、あえて一番おもしろい方を選べと言われたらためらいなく一期を選びます。

キャラクターというものに深い思い入れを持って見ているとあの投げっぱなしに見えるエンドは確かに許せない部分があるかもしれないですが、単純にゲラゲラ笑えるのは私は一期です。それはギャグとしての普遍的な精神が垣間見えるからです。そもそもあの壮絶な突き落としはシリーズテンプレートが出来てない一期だからこそできる笑い。一期でしかできない笑いなら一期でやるしかないだろうって思いますもの(ある意味二期が想定されていたからこそできたとも言えますが)。

視聴者が当然こうだろうと思う展開を裏切り続け少しづつずらしていく手法。そして松初期から貫かれている自虐の心。それが一期の笑いであり最終回でした。

二期の最終回は脚本家一人体勢だったこともあり出来過ぎなほど構造は綺麗です。でも、その綺麗さに現実感のなさも感じるんですよね。逆に荒唐無稽みえる一期の最終回の方に妙なリアルを感じてしまいます。冷静になって考えて見ると現実って結構あんなもんじゃないですか? 努力しても報われるとは限らない。突然の理不尽にすべてを台無しにされる。なんだかよく分からない大局(センバツ)に運命をゆだねこれさえ成功すればうまくいく~と自己暗示をかけて見るも現実はそんな甘いもんじゃない。夢も希望もない!!

でも一期の時はそんな夢も希望もない底辺な世界こそがなぜかパラダイスのように輝いて見えて、「これでいいのだ」っていう自由に満ちていました。自分のいる世界を地獄だとしながら、それを躊躇なく笑い飛ばす罪悪感のなさが痛快でした。一期にはこの世にはびこる良きものとされる風潮(今風の美形、働く美徳、努力、エモーショナルな言動、恋愛至上主義など)をバッサバッサと切っていく爽快感があったのです。それは『おそ松さん』のスタートが本当に下の方から始まっていて一般的なオタクカルチャーが求めるものと一見真逆の立ち位置にいたからこそできたことでしょう。

しかし、一期で凄まじい人気を獲得した事で『おそ松さん』というコンテンツは一期の時に揶揄していた「良きもの」のエリアに入ってしまうのです。大勢を皮肉っていた側が大勢に入ってしまうという更なる皮肉。これが二期の迷走に繋がっていると思います(あえて迷走と表現しますが普通に一期同様楽しかったよという人も当然いますし、それは同じアニメを見ていても楽しんでいるところが違うので当たり前の事です。あくまで一オタクとしての私の私見という事でご容赦ください。というかこのnoteではあまり表に出しませんがツイッターなどでは「腐女子」としての面からは大いに楽しんでいる私もいますので……)。

二期の松は一期と微妙に違うという論調を見かけますし、実際私もそういう風に語ることが多かったですが、スタートからして一期と違うところから始まっているので変わらざるをえなかったというのが本当のところでしょう。風刺すべきものがすべて自分たちの身のうちにある状態でいったい何を風刺すればよいのか! そんなこと関係なく一期と同じようにやれという意見も分かるのですが少なくとも一期と同じようなことをすれば、ほのぼのコメディにはなるかもしれないですが、赤塚ギャグではなくなってしまうかも。制作陣が『おそ松さん』を純然たるギャグアニメとして描きたいと思う以上その道を選ばないのは自然な事です。

二期スタート時で六つ子たちに対して一期と変わらずいじれる部分って童貞である事など性的幼さくらいしか実際ないんですよね……。だからこそ二期一クール目では執拗なほど下ネタが頻出するわけです。手持ちのカードが一気に減っている。ぶった切る対象がもはやいないという。キャラクター面でも掘り下げが行われたせいで彼らの言動を以前のように単純な記号として笑い飛ばすことができないし、一期最後で一応就職一回してるから厳密な無職ニートじゃなくなってる。むしろ普通に働いていた方が楽そうでは? とすら感じます。

ニートであることが「働かない自由」であった一期と違い、もはやニートでなくてはならないという「働けない不自由」からスタートしてるんです。二期に感じる息苦しさはこれだと思う。一期の時にあった自由が逆に二期を縛る戒めになってしまった。しかもこの戒めを生んでいるのは誰あろう松を楽しみに見ている視聴者たちの期待なんですよ。

一期では視聴者の期待をぶった切りながらそれが奇跡的に視聴者の希望にも叶っていた構造があったんですが、二期では視聴者の期待がそのままギャグワールドの根幹に繋がる設定に直結しているため不用意に切れない。しかし手持ちカードが少ないので小出しに切らざるを得ないみたいな状況だったと思います。

二期に入ってから私は頻繁に「視聴者へのブーメラン」という言葉を使ってきましたが、一期と同じ自虐をやってももはや制作者側が高みに上っている為どうしても私たちが一方的にやられる構図になってしまうという事なんだと思います。以前は修学旅行の夜のように同室でバカをやっていた仲間が、今度はそれを取り締まる教師の立場から頭を叩いてくるみたいな感じかもしれない。

視聴者に迎合するか、それとも徹底的に皮肉るか。その態度を決めかねる制作者の心そのものをストレートに描いたのが二期一話で、その後も一クール目はずっとその葛藤を引っ張り続けていた感じがします。二期は小話集みたいな短編詰め合わせが一番楽しいと感じたのも小話では各話のつながりが薄い分そう言ったしがらみなく好き勝手できるからでしょう。

その他では六つ子以外の話にギャグ的に面白いと感じたのものが多かったのも印象的。デカパンとダヨーンがらみのギャグは二期で一番赤塚味を感じましたね(「返すだス」とか「合成だよん」とか意味不明だけど大好き)。イヤミに関しては安定の赤塚ワールド。これらの脇キャラには一期での手あかがついてない分同じように扱えて制作者にとっては使いやすいのだと思いました。実際二期最終回のギャグ大トリも六つ子ではなくてイヤミなのですから。

しかし、その閉塞感の中で制作者側が何か新しいものを生み出そうとしていることは確かだと信じたいです。特に後半に入ってからギャグの構造的地獄をおそらく意識的に表に出すようになったことからもそれは感じます。

二期はキャラが一期のように類型的な描かれ方をせずより生々しく現実的な人間の言動をすることが多いです。特にトト子ちゃんなどは一期の高みからトロフィー的なヒロインとしてお気楽に場を眺める立場から一転、嫉妬と焦りを内在する現実的な女性としての描写が見え隠れします。更には悩み苦しむ制作者自身の姿さえも時に滑稽にアニメ内に登場させるのです。

そうして作り上げてきた二期キャラを一期より現実的な自立にぶち込んだ後やっぱり華麗にぶち壊してしまう。その行為に今ある苦しみがどんな地獄であれやっぱり最後には変わらず笑い飛ばしてやるという気概を感じるのです。地獄に落ちた六つ子たちを笑い飛ばす赤塚先生にその意思を見ることができます。

もっともそれが笑えるか笑えないかはその人の感性次第。よりキャラクターが肉付けされ現実に近くなればなるほどリアルな苦しみも付随し笑い飛ばすことは困難になるし扱いも難しくなる諸刃の剣です。それでもギャグの本質がこの世にあるありとあらゆる常識に切り込み最後にには笑い飛ばすことであるならば可能な限り挑戦していかねばならないのかもしれません。

「この地獄を笑える奴だけついて来い! あとは知らん!」という。二期はある意味それ自体が今後の松のあり方への決意表明に費やされたという感じなのでシリーズとしての評価はどうしても純粋なギャグアニメとしては下がりますけど、大切なシリーズであったことは確かだと私は思っています。

二期の24話~最終回は我々に擬似的に「キャラが死ぬ瞬間」というものを見せてくれました。それは視聴者が最も見たくないものであり、それでいて普通は見ることのできないものです。だって本来キャラが死ぬという事は我々の心中から消えるという事。我々の中にはもうそのキャラはいない以上おそらく「消えた」という事さえ意識できないのではないでしょうか。でも、どんなものでもいつか終わりが来る。幼い頃熱狂していたアニメだって大人になってそのままずっと愛し続けるとは限らない。それは当たり前の事です。だから、その事を必要以上に悲しむことはないと思います。

私にできるのは心の中にキャラクターが存在し続ける限りそれを愛し、笑いつづけること。それがすべてです。先の苦しみなんか想像して勝手に悼んだところでキャラクターの寿命が縮まるだけです。ただ今を刹那に好き勝手楽しめば良い! というかそいういうところが私がギャグが大好きだなーってもっとも思うところなのですから。でも笑えなくなったら素直に心の中のキャラをぶっ殺して忘れてオッケーでは? むしろ忘れてあげたほうがキャラも無間地獄で責め苦を負う手間が省けると思うし。

何度も言いますが、キャラクターの最期というものに視聴者は本来立ち会うことはできません。心の中にわずかでもキャラを愛する心が残っていればたとえ世の中からは忘れられたようなキャラクターであっても自分の中では生きているからです。だからキャラクターが本当に死んだ時悲しみなんて多分ないのです。そんな先の事を心配するより私はただ今の彼らを全力で好きでいるほうを優先したい。

私は今後制作者側がどんな風に『おそ松さん』世界を動かしていくつもりなのか、どの方向へ向かって動いていくのか(あるいは動くことを止めるのか)まだまだ気になるので三期を切望しています。三期でどういう風になろうとそれはそれ。あがき続けるキャラたちの地獄をまだまだ笑い飛ばしていく覚悟がある限り私は『おそ松さん』を楽しんでいこうと思っています。

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