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自分を信じない

「疑え。自分を善良な存在だなんて間違っても思うな。人間はいつでも容易く悪に転じる。愚かで、愚劣で、弱い生き物だ。常に疑え」

「お松さんに読んで欲しい漫画があるんです」と後輩に教えてもらった『さんかく窓の外側は夜』のセリフが妙に心に残った。

文字だけを見るとネガティブに映るセリフ。これのどこが自分の琴線に触れたのかをメモっておきたい。

本作品は人や事象を「信じる・信じない」ことが作品の大きなテーマ。冒頭のセリフは、殺人を犯しその後自殺をした父親を持つ娘に刑事が投げかけた言葉。娘は「ありがとうございます」と絞り出して感謝する。

「自分を信じる」の違和感

「答えはクライアントの中にある」

これはコーチングの基礎中の基礎であり、このマインドがないとコーチングは機能しないようにデザインされている。

コーチングでは答えを与えるティーチングではなく、質問を投げかけ、考えを言語化してもらうコミュニケーション。質問を投げかける際に「この質問を投げかけて答えがなかったらどうしよう」と考えていては、質問することができない。

というわけで、「人は信じるものだ」と僕自身思っているし、クライアント(コーチングを受ける人)にも「自分のことを信じて欲しい」と思っている。

一方で、この全方位の「信じる」に対して、喉に骨が刺さっているような、何か大事なものを単色で塗りつぶしてしまったような違和感もあった。その違和感の原因が冒頭のセリフに隠れている。

問題は「自分の何を信じるのか」。


日本教というOS

私なりの解釈を付け加えると、日本教が想定している人間は、「ちゃんと機能している人間」なんです。頑張ってる人間、意識疎通ができる人間、これが標準なのだから、全員がそれに合わせて振る舞いなさいということになる。

逆にいうと、そうではない人間はダメなんですよ。空気を読まないとか、あるいは障害を持っていて意思疎通ができないとか、そういう人に対しては、非常に酷に扱ってしまう面がある。

日本教は宗教ではないにもかかわらず、ある種の宗教的な機能を持っていて、山本(七平)の主張を今日風に言い換えると、そうした人間信仰こそがベーシックなOS(オペレーション・システム)なんです。

━━『心を病んだらいけないの?』より引用


最近読んだ本にこのような一文がある。

日本人は無宗教者が多いが、多くが『日本教』というものに入信している。そんな僕たちは、人は皆「ちゃんと機能している人間」である、と無意識に考えてしまう。

”ちゃんと機能している”とは、ちゃんと働いて、ちゃんと他者と意思疎通ができて、もっと言うとちゃんと「生産性のある」状態を指す。要は、人に対しても自分に対しても、人として求める基準が高い。

つまり、『日本教』に入信している僕らの「自分を信じる」は「自分がちゃんと機能している人間である」ことを信じなきゃけない、となってしまう。

自分で自分にプレッシャーをかけている状態。厄介なのは「自分を信じる」が「自分にプレッシャーをかけている」に繋がっているのに、その繋がりを認識できない点。

だからプレッシャーを感じて苦しいのに、苦しさの原因が分からず、原因がわからないことにまた苦しむ負のスパイラルが生まれてしまう。


自分のなにを信じれば良いのか

無条件の「自分の信じる」は苦しむ可能性が高い。であれば、自分のなにを信じれば良いのか。

僕はその問いに対し、

・自分は必ずどこかで失敗する
・そのプロセスできっと何かを得るはずだ

この2つを信じれば良いと答えたい。

世の中は絶えず変化するので、ずっと同じ自分ではいられない。その変化に適用しようとする時、失敗をすることも多々ある。というか、大体失敗する。

そんな失敗する自分を承認するために「自分は必ずどこかで失敗する」と信じることが大切なのではないか。失敗したときに「やっぱりか」と前向きに受け止めるための「信じる」はきっと挑戦を後押ししてくれるはず。

そして、その失敗に至る一連のプロセスを通して、自分は必ず何かの気づきや学びを得るはず。失敗する前の自分よりも、少しだけ自分が大きくなるに違いない。そう信じる。

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「自分を信じる」の意味をこのようにできるのなら、なんとなく風通しがよくなるのではないかな。たぶん。とりあえず、まずは自分からやってみよう。

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お松
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