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対話とは「闘い」である

この記事にたどり着いたあなたはきっと「対話」について興味をもっている方ですね。


よくわかんないですよね、対話。Twitterなんかで、対話と会話の違いとか、対話と議論の違いとかが流れてきて「はは〜んなるほどな〜」と思ったりもしますが、じゃあ改めて自分の言葉で対話を説明したり、実行しようとすると「はて、一体対話とは?」となります。


僕もよくわかっていません。プロコーチとして様々な方にコーチングを提供し、またそのノウハウを転用して企業の対話的なワークショップの設計に携わらせていただいているのですが、「対話を完全に理解しているのか」、「対話を過不足なく実行できているのか」と問われると、答えは大文字のNOです。NOが太すぎて、うっすらとでも「yes.....」と書きたくて今大学で心理学を学んでいるほどです。


なんとも情けない話ではあります。しかしながら、わからないものに対し、わかろうと努力することが、その不確実性を抱え続けることが、対人支援者として一番大切な姿勢なので、答えのなさそうなこの「対話とは何か」について考えていきたいと思います。本noteには「対話とは何か」に対する明確な「答え」はありません。あるのは対話に対する「考え」だけです。


「対話」についての古典、デヴィッド・ボームの『ダイアローグ』に、対話の目的がこう書かれています。

対話の目的は、物事の分析ではなく、議論に勝つことでも意見を交換することでもない。いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それを見ることなのである。━━さまざまな人の意見に耳を傾け、それを掲げて、どんな意味なのかよく見ることだ。
『ダイアローグ』


本noteも「対話」について先人の意見に耳を傾け、「対話」を目の前に掲げながら、そこにどんな意味があるのかを観察できる材料にしていただけると幸いです。


対話ブームはどこから


対話について、なぜ興味が出ている人が増えているのか。対話について考えるために、まずはここを出発点にしたいと思います。



これはよく言われるように、テクノロジーの発達によって僕らの住む世界が小さくなったことがベースにあるのは間違いなさそうです。これまで接することのなかった様々な価値観の人たちがそばに現れ(たように見え)、お互いに思っていることを知る必要がでてきた。


しかも、どうやらみんな価値観が違っている。だから、どちらの価値観が正しいのかを競う議論ではなく、かと言ってだだの雑談でもなく、もっと深いところまで意思疎通する必要がありそうだ。よって、対話が必要である。といった社会的な要請が根底にあります。


そしてもう一つ、ビジネス的な文脈も大きく影響してそうです。企業はただ利益をだせばいい、といった考え方ではもうダメで、今後は社会への存在意義を示しながら持続可能な活動をやっていかなければならない。というSX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)の実現を経産相が求めています。

新型コロナウイルス感染症の拡大や気候変動の影響、グローバルサプライチェーンにおける企業経営を取り巻く環境の不確実性が一段と増す中では、「企業のサステナビリティ」と「社会のサステナビリティ」を同期化させた上で、企業と投資家の対話において双方が前提としている時間軸を長期に引き延ばすことの重要性(こうした経営の在り方や対話の在り方を「サステナビリティ・トランスフォーメーション(SX)」と呼ぶ。)を提示している。
▲「サステナブルな企業価値創造に向けた対話の実質化検討会中間取りまとめ」より


このように。経産相の資料にも「対話」とはっきり書いてあるんですね。この報告書では次のように続きます。

また、実質的な対話の在り方として、近年の対話を巡る変化を踏まえて対話の意義を再検討した上で、実質的な対話の要素を「対話の原則」、「対話の内容」、「対話の手法」、「対話後のアクション」の観点から整理するとともに、対話のプラクティスを共有する「場」の設置の必要性を述べている
▲「サステナブルな企業価値創造に向けた対話の実質化検討会中間取りまとめ」より


対話の数えぐい。個人的にいいなと思ったのは、対話のプラクティスを共有する「場」の設置の必要性、の箇所。対話は研鑽を積まないとできない。と認識してないとこの提案は出てこないはずなので、素敵な方が参加されたのだな〜と嬉しくなりました。


とまあそれっぽく対話が流行ってきた理由について書いてきましたが、このような「対話ブーム」ってこれまでもあった気がしています。


なにかうまくいかない状況が発生した時の解決策として「これからは対話である」と言われてきたのではないか。そんな気がしています。ということはですよ、対話はこれまで何度もその重要性が語られてきたにもかかわらず定着していない。ってことでもあると思うんです。


じゃあなぜ対話は定着しないのか。僕はその理由を「対話への認識のズレ」だと思っています。もう少し言うと、対話ってそんなに便利なものじゃないし、本気でやろうとするとめちゃ修行が必要ですぞ…。というわけです。


文字を書くだけなら誰でもできます。けど、文字を並べておもしろい文章を書く、となるとその難易度が高くなるのと同じです。

ビジネスの世界に「対話」は存在しない


対話について考えるとき、その知見がどこに1番溜まってるのか。僕は対話によって他者のケアを担い続けてきた精神科医やカウンセラーのみなさんにその知見が蓄積されていると考えています。


斉藤環さんという精神科医のファンなので、その著書の中から対話について考えていきたいと思います。


私たちが他者と出会い、互いにそれぞれの統合性を尊重し合うためになされる行為。それこそが「対話」である。対話においては「議論」や「説得」、あるいは「アドバイス」はタブーとされる。それは相手の存在の「統合性」を否定し、自分と同一の存在であることを強いる行為になりかねないからだ。これと同じ意味で、「正しいこと」や「客観的事実」をめぐる対話は、しばしばどちらかの、あるいは双方の「統合性」を傷つける。

では何を話題にすべきか。それぞれの「主観」である。それが傍目にはどれほどいびつなものに見えようとも、対話の出発点は常に「主観」であるべきなのだ。その意味で対話とは、主観と主観の交換でもある。たとえ相手の主観的な意見に同意できなくとも、私が主観的に同意していないことを穏やかに伝えつつ、「共感」可能なポイントを探ること。これも対話の一部となる。たとえば「親を殺したい」という訴えには同意はできないが、そう思うに至った過程については共感できる、というように。
『心を病んだらいけないの』より抜粋

いかがでしょうか。僕はこんなにも対話について納得感のある文章を読んだことがなかったので、この箇所を何度も読んでは溜息をもらしています。


ここを読むと、対話というのはビジネスの世界でほぼほぼ実現不可能な行為であることがわかると思います。仕事での話って「正しいこと」や「客観的事実」を話すものですよね。そういうことを通して利益を出せるような決断の精度を高めていく。別にこれが悪いことではありません。そういうものなので。


「いやいや、1on1で仕事に関係ない趣味の話もしてるし!」と思われるかもしれません。なるほどたしかに。もしかするとその瞬間、対話が成立しているかもしれません。


でもよく考えてみて欲しいのですが、そもそも1on1はなんのためにやるのでしょうか。おそらく「社員のワーク・エンゲージメントを高めるため」であったり、「部下の成長を促すため」みたいな目的ですよね。それは結局企業にとっての「正しいこと」から発生してるので対話からは遠ざかった行為です。


事実と解釈を分けて話す、がビジネス会話のマナー。これは主観と主観の交換である対話とは真逆の発想です。「それってあなたの感想ですよね?ぜひそれを聞かせてください!」が対話なのです。


目指すべきは「対話」ではなく「対話的」


ビジネスにおける会話は対話ではない。では、それ以外の生活における会話は対話なのでしょうか。


先ほどの斉藤環さんの文章をもう一度確認してみましょう。

たとえ相手の主観的な意見に同意できなくとも、私が主観的に同意していないことを穏やかに伝えつつ、「共感」可能なポイントを探ること。これも対話の一部となる。たとえば「親を殺したい」という訴えには同意はできないが、そう思うに至った過程については共感できる、というように。

目の前の友人が「親を殺したい」とこぼしたとき、驚かず「そんなことダメだよ」と説得もせず、そう思うに至った過程を想像して共感できるでしょうか。


きっと無理ですよね。ちゃんと時間をかけて勉強して実践しないと実現できないのが対話なのです。では、対話をあきらめるのか、と言われればそうではなく、「対話的」を目指せばいいのではないか、と考えています。


厳密な意味での対話は難易度が高すぎる。なので対話の要素をいくつかピックアップし、それらを日々の会話に実装すればいいのではないか、ということです。


そうすることで、相手の意見に耳を傾けられるようになり、価値観の異なる他者とコミュニケーションがとれるようにできるのではないか。


斉藤環さんの言葉を拝借すれば、「対話的」な会話を心がけることで、相手の存在の「統合性」を肯定し、自分と相手を異なる存在として尊重できるようになれればいいなと。けっこう良い考えだと思っているのですがどうですかね?



「対話的」になるために


ではどうすれば「対話的」な会話ができるのか。下記3つを「やらないこと」として心がけることからはじめていきましょう。


「議論」

議論をやめましょう。相手と意見が違ってもまずは相手の意見を最後まで聞ききる。聞いているときに相手の意見の矛盾点を指摘したくなるかもしれません。相手の意見が自分の過去の傷を無意識に触ってくるかもしれません。けど、遮ってはいけません。最後まで頑張って聞いてみます。


きっと最初は苦戦すると思います。相手の意見を遮ったり耳を塞ぐのは簡単だからです。だから難しいなあと思ってもそれが普通なので安心してください。


相手の話を最後まで聞くと、相手から「この人は話を聞いてくれる人だ」と認識されます。これがとっても大切です。人は「この人は話を聞いてくれる人だ」と認識すると、その人の話を聞きたくなります。ここに対話の入口があるのです。


★念のため補足★
時にはあきらかに悪意をもってコミュニケーションをとられる場合もあります。対価をもらっている対話の専門家ならともかく、そういう場に遭遇したらすぐに避難してくださいね。撤退撤退!


「説得」

説得をやめましょう。相手を自分の意見で支配しようとしてはいけません。相手の意見は相手の意見として、自分の意見と同じくらい大切にしなきゃいけません。


相手が意見をもっていなくても、自分の思うように説得してはいけません。そういうときは、相手が自分の意見を持てるまで待ってみるのがいいと思います。

この「待ってみる」ってのが大切です。人が自分の考えをもつには時間がかかります。安易に時間を短縮すると、相手の統合性を傷つける。対話には時間がかかるのです。


「助言」

助言(アドバイス)をやめましょう。


対人支援における名著『プロカウンセラーの聞く技術』の中で助言についてこう書かれています。

ついつい自分ならこうするというような助言をしてしまいます。このような助言が話し手の役に立つことは、実際にはまずほとんどありません。どうしてかというと、聞き手が話し手とは違った存在だからです。心理臨床家から見れば、じつは、これは聞き手の「いかれ現象」なのです
『プロカウンセラーの聞く技術』より抜粋

悲しいですが、助言は自分を気持ち良くしてくれても相手の役に立つわけではありません。


アドバイスが口から出そうになったら、一旦飲み込む。もし、相手が何か助言を求めてきたら「これは自分の話だけど」と慎重にはじめるぐらいがちょうどいいと思います。

相手の置かれている状況は自分にはわからない。自分の経験は相手の役に立たない。そのまっさらで不安定な足場に立ったときに、はじめて相手の話がちゃんと聞けるようになります。


対話とは「闘い」である


「対話的」を目指す時にやめるべき「議論」「説得」「助言」、いかがでしょうか。やってしまってる…と思われた方がいたら、まずその内省ができたことを讃えてください。反省できることは尊いことです。


この3要因、実は出どころは一緒で、自分と相手を同一化したい、という欲からやってきています。


「自分と同じ意見にしたい」と思うから議論や説得をして自分の正しさを証明したくなる。自分と相手を同一化してしまうから、自分の助言は相手の役に立つと勘違いしてしまう。


相手と自分は異なる存在です。相手を理解した気になっても、それは「気になった」だけ。ぼくらはわかりあえない。できるのは、「わかりあえない」ということを共有すること、つまり、「わかりあえなさ」を知るだけです。


けど、それこそが「対話的」の出発点になります。わかりあえなさを知ってるからこそ、自分勝手に相手のことを想像することなく質問ができる。わかりあえなさを知ってるからこそ、相手の話に真摯に耳を傾けることができる。わかりあえなさを知ってるからこそ、ほんのわずかな共通点を慈しむことができる。


わかりあえない相手と対話することは、不確実性が高いので心地よいものではありません。時には相手の意見や存在が、自分自身の信じてきたものを壊してしまったり、自分の至らなさを直視する辛い体験にもなり得ます。つまり、対話とは、対話的であることは、自分との闘いなのです。



対話とは自分との闘いである。それは同一化を求める自分の欲を監視し、他者の統合性を守ることである。決して安易な道のりではありませんが、その闘いに葛藤する姿勢を心から応援しています。

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お松
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