受けとる「承認」は選んでいい


「ありのままの自分を受け入れたほうがいい」


とたくさん言われますよね。けど、その言葉と同じ回数こう思ったはず。




「それはどうやって」



自分のありのままを受け入れること。ダメな自分も弱い自分も受け入れること。つまり自己受容することは、他者との比較がゆるやかに強制させる社会で、その重要性は高まるばかりです。


では、具体的に、どうすれば自己受容できるのか。「自分で自分の評価をしない」「その時起きた感情を味わい切る」など、自己受容するためのノウハウは、指先ひとつですぐ見つけることができます。しかし、これらの方法は、すでにある程度自己受容ができている人にとっては有効ですが、まったく自己受容ができていない人には役にたちません。


それはなぜか。僕の考えになるのですが、自己受容の最初のスタートには必ず他者からの「承認」が必要だからです。


承認、と聞くともしかしたら「偉い人から認めてもらうことかな?」と思われる方もいるかもしれません。そうではなく、人の存在そのもの━━人のでっぱったところや引っ込んだところ、大きいところや小さいところ、その統合性をそのまま認めることを「承認」と呼びます。


この承認が、自己受容をするにあたってとっても大きな役割を果たします。キャンプで火起こしをやった体験を思い出して欲しいのですが、あの最初の火種が「承認」で、その火種を大きくするためにふーっふーっと息を吹きかける作業が「自己受容」にあたります。


これだけ重要な「承認」なので、僕たちは「承認」を無意識に求めています。しかしながら、この「承認」は世の中に数が少ないんですね。これはなぜかと言うと、日本人は他者を「ちゃんと機能している人間」とみなしてしまうからです。



人は頑張っていて、意識疎通ができて、これが標準である。と考えている。逆にいうと、そうではない人間はダメだと思ってしまうんですね。人とは「ちゃんと機能している人」である。だから「ちゃんと機能していない人」のことを承認することができない。このように人に対する基準が高いので、承認が不足した社会になっているんです。

▲このへんの話はこの本を読んでいただくとより理解が進むと思います。山本七平の「日本教」という考え、めちゃわかりやすいです


人が必要としているのに、供給がすくない。なので「承認」の相対的なありがたさは高まるばかりです。だからこそ、受け取れる承認はありがたく頂戴し、承認をしてくれる人を大切にしたい。と思うのは当然です。自分の良いところなんて一つもないと思っていたけど、それでもあの人は自分を受け入れてくれた。このような経験に救われた方もいるはずです。



そんなありがたい「承認」ですが、もし、その「承認」を与えてくれる人に対して違和感を感じたら、その「承認」は受け取らなくていい。喉から手が出るほど欲しい「承認」でも、もし受け取る瞬間に違和感を感じたなら、それは受け取らないで欲しいのです。


「承認」には強い依存性があります。人に必要なものでありながらも、危険なものでもある。なので、もし、あなたを利用しようとする人が「承認」を与えてきて、あなたがそれを受け取ってしまったら、よくない未来がやってくるかもしれません。だから、もし違和感を感じたら、全力で逃げて欲しいのです。


これは僕のただのお願いです。ロジックもデータもありません。あなたの違和感を信じて欲しい。承認は受け取らなくてもいい。頭と心のすみに、この話をおいていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。

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お松
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