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若だんさんと御いんきょさん『すなの』 所感

2022.3.6(日) 16:00回を観劇。


◯まどまどさん演出 

暗闇のなか、
ぼーっという 
聴覚情報から入るのまず好きだった!
視覚情報ってあまりにも強烈だから、
暗闇の中、そのあとつよくもよわくもほとんどならないない音が流れ始め、始終流れているのが良かった。
錯視のような鈍りがもたらされる気がした。
私は眠りに落ちる、昏睡直前のぼんやりと
した瞬間のようなものを脳みそに感じながら観劇していた。
それが衣装のパジャマと通じている気がして好きだった。
(スペースで、まどまどさんが女と男の状況を「衣装ではなく距離で示したかった」と言っていた。メモ。)



砂時計をただ眺める時はどういうときだろうと考える。
時間を計りたいとき、現代であれば
タイマーなんて便利なものはいくらでもある。
油の分離を利用したものや、インテリアとしての
砂・水・油時計が世をあまねいている。

眠りに落ちるようなまたは
眠りに落ち時を飛ばしたいような感覚のときに
男はひとり砂時計を見つめていたんじゃないかと思う。

ピロートークが重要だなんて記事をいつか
よんだことがある。
修学旅行のふけない晩、飲み明かして
記憶おぼろに喋る時間。
意識がこんだくした時間に喋ったことが
ずっとおまもりみたいな大切な記憶になることってよくあると思う。
女と一緒に砂時計をみていた時間
(ト書きは午後三時って書いてるけど!夜ちゃうけど!)
もこういったものに近い手触りの幸せがあったんじゃないかと思う。




映像の逆流しない砂がすきだった。
砂時計の中身は増えることも減ることもない。
ひっくり返したとて、同じ物体が場所をかえているだけ。
頑張って割らない限り、砂がどこかにいってしまうこともないし
一粒手にとることもできない。
全部の砂は似たような見た目をしてる。



彼女は、椅子を降り、まあるい欠片を探すが 
男はその存在に触れることも、
新しい彼女に出会うことももうない。
男の記憶と残した記録だけが現状の彼女のすべてなんだろう。
砂時計の砂みたいに、男が忘れない限り
女は男のなかで生きるけど、記憶ってどんなに
覚えていたいものでも輪郭がだんだんぼやけてくるよな~



男がまあるい空気からはじめて立ち上がる時に、
鉄琴みたいな高くて硬い音が流れたのがすきだった。
ほのくらさを示し始める物語の
契機になる音が軽やかなのがすきだった。  



わたしは帰宅後せりふの時代をよみなおして、
ト書きの夕方三時の眩しくオレンジかもしれない
陽の光が妻の指の爪のほそ丸くきりそろえられてる爪に馴染む、という状態を
やさしく受け取ったが、渡邉さんの
読みだと冷えきってどこか恐ろしい感じがするのもすきだった。


じっと動かない二人と、
動きだす女が地続きになっているような
ところがちょっと感覚としてまだ言葉に
落とせてないんですけど悪いとか良いとかじゃなくて気になった。



◯はとさん演出
でめきんさんも暗転時から演出が始まっていた。
暗闇でも白い服はよく見える。
女が軽やかに舞う様子が見えた。
現実的でないような、ちょっと誇張気味のような
かわいらしい仕草が多かった、
男が着ている服と机とカラフルなかけらがついた
ポール以外、全部抽象的な美術だった。
夢想的なものを感じた。

男の幸せのかたちである、まあるくて
かろやかにはねるパチンコ玉の遊び心のような 
明るさが一番女の情報として可視化されているなと思った。



丸いかけらが唯一四角で表されるのが気になった。
四角いと転がっていくこともなく
そこにあり続けるよな~と思う。



音響がちょっとだけ気になった。
男がコップをカチリカチリと置くシーン(多分)、
女にみどりの四角いひかりがあたっては
消えてとしていたシーン。
ずっと流れている音響がここであおられていたきがするが、
照明も音響も結構強調されていて、
ひとりなんだろう男がカチ カチ と鳴らす
音があんまり聞こえなくて、
なんだかもったいないなと思ってしまった。
好みだとは思う。
このシーン、無音近い状態で光と台詞だけで
観たかったな、と勝手に思った。


  


せりふの時代、発売時に買っていて、
当時一度山本さんのこの作品も
目にしたが、今回この公演の
告知を初めてみてから観劇、
帰宅するまでまで一度も再度読むことはしなかった。

アフタートークでまどまどさんが「私は情報をなるべくいれない」、
若旦那さんが「僕は逆にとりのこされないように下調べをする」
とおっしゃっていた。

私はどっちの場合もある。
あらすじを読んで、あまりにも想像できない
史実や古典作品を参考している、
とのような記述があったり、
それこそ古典作品の再演であれば
Wikipedia程度の知識はいれて行く。。
今回は、遠い昔に『すなの』を読んだことも、山本さんとお話ししたことも
コトリ会議の作品をみたこともあったので、
情報を何もいれていかなかった。




◯泉さん演出
ツレヅレで思いだし、でめきんで確認しつつ
観劇した三作品目。
気づいたら始まっていた(寝てたとかでなく、
いちばんぬるりとして始まった気がする、これもなんか好きだった)



私はなんにせよすぐ涙腺が理性を手放すのだが、
この作品のときも涙を流してしまった。
なんだか一番すきだった、かもしれない。

男が一番軽薄だった(いい意味で。軽薄というか、みてとれる感情の起伏が大きく、
その反面女はずっと静かで、動かず、部屋のなかなのにダウンを着てマフラーを巻いていた。 なんの台詞か忘れたけど田宮さんの台詞回しがすごく好きなところがあった、なんで忘れたんや。
香川さんもとっても好きだった。
男には「さわあん」ときこえる
すーーーーという音がわたし的に一番記憶に残る作品だった。)。 



どこから始まったか覚えてないんだけど、
ケトルの話になるまで女の声はスピーカーから聞こえていた。

女がほんとうに男がコーヒー入れにいっている間に録音していたんじゃないか、
一人になってしまった男はそれを
再生して女と会話を何回も繰り返しているんじゃないか。

最後生の会話になったのは、
あんまりにもこの行為を男が繰り返すもんだから、
その先(実際過去にあったのかもしれない)会話を
男が少しだけ紡げるようになって、
最後は男の中の女と男が会話していたんじゃないか、
でも男はやっぱり一人でしかないんじゃないか、
そこにある事実は
女のために置いたコップと
誰も座ってない椅子と遺影と
ピンクだか緑だかわからん砂時計
なんじゃないかと想像して涙が出た。



最後一番まぶしい光が女の席に
照らされて終わる絵に強い美しさを感じた。
眩しかった。



額縁が額縁として出てきたのはでめきんさん
だけであったけど、
まどまどさん演出の直線的に流れ落ち続ける砂や
決して女に触ることのない男(これは三組共通しているが)、
泉さんの女の席に決して触れられることのない
コップを唯一実際に置いていたことなどの演出からは、
女の死の匂いを十分感じとることができたなと私は思う。




古典作品にも国の歴史にもまだまだ疎い
私のみてきたものだけでことばにしてみている
私の感想なので各演出家さんが思い浮かばれてはしらない。



こういう実験的な形式の公演をみるのが
私は大好きだ。
話がわからなくても難しくてもみるのが好きだ。
受け取れているかは自信がないけど。

スタッフとも劇場とのツテもある若旦那さんだから
企画できることなのかもしれないけど、
若手主体で若手の中でもこういった
実験することが当たり前に許される
発表の場があればいいよなと思った。



売れるため色んなお客さんにキャッチーに観て貰うためじゃない公演があってもいいと思う。 

というのは演劇の間口を狭めてしまうことなのかも
しれないけど、広げることだけ考えても
深みは増さないんだろうと思う。

沢山みて沢山考えるから、今までにない
ものを作れるんだと思う。
というかもっと演劇をやっている
役者演出家諸々スタッフが観にこればいいのに!
公開されてる実験の場とか、
スターマーチンプロジェクト(カタカナで書くなちゃんとかけ!)さんやソノノチさんがやってる
プロセスの公開とか、みんなもっとやればいいのに!(私が知らないだけかもしれない)

(人見知りだからあたらしい人と会うの
かなり労力が私はいるから
本当は苦手なんだけどでも私は
色んな稽古場を知ってみたいんよね~)


そんで話したらいいのに!
どうやって広報したらみにきてもらえるんだろ~
とか思いました(いや観に来とるやろ知らんけど)

これは劇の感想なのか???

おしまい!


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