自分と向き合う
皆さんこんにちは、まるです。
昨日の今日ですが、珍しく続けて更新しようと思いました。
というのも昨日の投稿で、多くの方に声をかけてもらったほか、先週VCさんにも少し相談していたのもあって、VCさんから電話がかかってきました。
※VC:volunteer coordinator の略
JICAでは派遣後職種によって自分の担当のVCさんが付きます。
そこでいろいろ話したり、解決策を模索したり、アドバイスをいただいたりしました。
多くの人に心配をかけてしまったことに申し訳なさを感じるとともに、こんなにもたくさんの人に支えられているのだと改めて実感しました。
そんな中で、活動への理想や希望、直近の未来が見えなくなっていることが原因の一つに上がりました。
なので今回は、自分の夢や将来像について書いていこうと思います。
こういったことが前向きになるきっかけにもなると思うので。。。
まず、昨日の記事にも書きましたが自分の夢は登山ガイドになることです。
JICA全く関係ねーじゃん!と思いつつも書き進めていきます。
JICAの経験がどう生きるのか、未だにわからないです。
が、改めて文に起こすことで何か掴めるのではないかと期待しながら書いております。
余談を挿みましたが、自分の夢は登山ガイドになることです。
この夢にたどり着いたのは3年前
人生で初めて2500mを超える山に登った時の話です。
今までなんとなくアウトドアが好きで、釣りもやったし、自転車ツーリングで九州一周したりもしました。
だけど何かしっくりきませんでした。
そんな時、コロナによるJICA協力隊が延期になり仕事を探さなければなりませんでした。
最初は地元の森林組合で少しの間仕事をしましたが、山仕事はつらいものがあり、大きな工事が終わった後退職しました。
その後、たまたま長野県での仕事が決まり、裏山に十石山という山がありました。
せっかくだからと思い、登りその山頂に立った時
体中に電流が走りました
あの時の感動は今でも忘れはしません
田舎で育ち、高校・大学と林学を学び、一度森林組合でも働きました。
それでも山を好きにはなれず、腐れ縁のようになっていた山
そんな山に人生を変えられました。
そこからの人生は実に充実したものでした。
僕の知らない山の世界
スポーツという面からみる山は何よりも新鮮で
当初は如何に早く登れるかなんかを追い求めていた時期もありました。
そこから北アルプス・八ヶ岳など名立たる山々を訪れ
時には苦痛を味わい、命の危険を感じながらも山にどっぷりと浸かる日々でした。
登山歴1年目にして独学で、単独で数々の山を登りました。
そして来る冬
多くの葛藤をしました。
危険と隣り合わせの冬期登山
そしてお金もかかります。
それでも山に行きたい衝動を抑えられず、装備を何とか揃え、冬の八ヶ岳に挑むこととしました。
そのために練習として、蓼科山や霧ヶ峰などでアイゼンワーク、ピッケルの使い方などを練習しました。
訪れる2021年12月
この日は稀にみる大雪の日で、腰まで雪が積もり、単独のためラッセルに体力と時間が割かれ、1日の予定の1/3の行程しか進めませんでした。
テントを所持していたので雪を掻き、穴を作り、テントを設営して眠ることにしました。
しかし、そこは真冬の八ヶ岳
鬼のように寒く、体感は-15度以下だったでしょう。
それでも何とか眠ることはできました。
翌日天気は回復しましたが、これ以上進むのは危険と思い、撤退しました。
そんな無茶な登山もしながら
2年目を迎えたとき
JICA事務局から1通のメールが
これが最後の限定募集です。
と綴られたメール。
僕は悩みました
登山ガイドとしての夢を追いかけながらも、2年間を海外で過ごしていいのかと。
ぎりぎりまで悩んだ結果出した答えは
参加でした。
いろいろな案件の中から、インドネシアの環境保全に関する仕事と、モザンビークの環境教育の案件を選びました。
結果は、モザンビークへ。
ここでは、沿岸部にあるマングローブ林をはじめとした国立公園に400頭ほどの象が生息しており、住民との衝突もあるみたいでした。
また、要望として森林保全の知識がある隊員を派遣して教育を行ってほしいとのことでしたので、それなりにマッチしてんだなと思いました。
そこから訓練まで約1年ほど空くこととなります。
その間、登山界のレジェンド
ニルマル・プルジャという人物を知ることになります。
NETFLIXでもドキュメンタリー化されているのでぜひ見てみてください。
この人物は、軍を退役後、エベレストなどを含む8000m14座を史上最速で完登した人物です。
そしてその挑戦の中でも、遭難している人がいたら必ず助けようとしたりするなど、人としての暖かさというか、責任感というか、うまく言葉では表せませんが、自分の目指すところとして初めて尊敬した人物でした。
※通常8000mを超える山や、デスゾーンという高山帯を含む山では遭難した場合救助されません。これは二次遭難を避けるためです。
そんな彼に感銘を受けて自分は、さらに自分を追い込むようになります。
楽しさで登山をしていたのが、紛ことなき確かな自分の道として確立した瞬間でした。
環境保全をするためにはやはり多くの人に自然を知ってもらいたい。楽しんでもらいたい。そして、大切なんだと、守らなければならないんだと思ってもらいたい。
その中で、遭難や事故にあった人を助けたい
遭難や事故を減らすために、多くの人のガイドをして山をより安全に楽しんでもらいたい
そして自分が多くの山を知り、世界を知りたい
ここではっきりと登山ガイドになりたいと思いました
そんな風に考えていた毎日
ランニングやトレーニングにも積極的に取り組むようになりました。
時間とお金の関係で亀のように遅いスタートとはなりましたが、それでも体は着実に仕上げていったと思います。
JICAのことは何一つ考えていませんでした。
気づけば翌年の4月
協力隊の訓練が始まる時です。
何も考えていなかった自分は、もちろん語学も勉強していませんでしたし、何の心構えもありませんでした。
それでも時は進み、入所してテストを受け、訓練生活が始まりました。
訓練生活は、語学をしてなかったこともあり、常に頑張り続けなければならない不安と、周りに負けられない焦燥感からめちゃくちゃ勉強をしたのを覚えています。
それでも、登山のことは片時も忘れず、訓練所内のジムにて毎日トレーニングをしました。
また、二本松訓練所だったので、裏山の安達太良山には2,3度足を運びました。
訓練所内の友人はクライミングが上手なこともあり、人生初のボルダリングもそこで始めました。
訓練所生活はそれはそれはとても充実した日々でした。
訓練が終わり、派遣までの一か月半はそれはもう驚くほどに山に通っていました。
地元石鎚山に朝日を見に行ったり、自転車100km漕いで登ってみたり
0富士といって、海抜0mから富士山を登ったりもしました。
南アルプス全山縦走にもいきましたが、そこでは体調を崩し敢え無く断念。
しかし充実した日々でした。
気づけば出国の日
正直わくわくはありました。
何せ人生初の海外ですから。
本当にワクワクしていました。
そして気付けば始まっているモザンビーク生活
そこからは苦難の連続でした
もちろん楽しかったこともたくさんあります。
でもこんなにも何もできないのかと、本当に今でも思います。
環境保全のために来たのに、毎日デスクワークと会議
誰に指導するわけでもなく、今日もこんな文を打っている自分に嫌気がさしています。
とここまでいろいろ書いてきましたが
思い起こすと本当に山のことばかり考えているなと思います
最近ではキリマンジャロのことばかり考えてしまいます。
これでいいのかと思うが故に余計に自分にストレスがかかってしまいます。
それでもこの4か月間で感じたことや学んだこと、見たことなどはここでないと味わえない、得られないものばかり。
それは間違いありません。
そして、現状を打破しようという気持ちも確かにあります
サバンナや動物たちを見て後世に伝えていかなければならない貴重なものだと素直に思います。
そんな重要なことの助けに何かなるのなら、今ここにいる意味を見出せるのかもしれません。
また、ここでは語学がもれなく付いてきます。
これからインバウンドが増えると予想されている日本
二年後はどうかわかりませんが、語学を習得していればそれだけで有利になるのは登山界でも同じです。
今後世界の名立たる山々に挑戦するのであれば、その経験は他に代えがたいものでしょう。
そしてここで悩んだり、試行錯誤したりしたことは、これから日本に帰って環境教育をするのにも十二分に役立つはずです。
自分のキャリアとして、外せないものではないですがここでの経験が今後の人生を切り開く力になるのではと思っています
またそうなってほしいと期待しています。
もう少し頑張ってみます
支離滅裂な駄文ですがここまで付き合ってくださりありがとうございました。