モザンビーク人に怒られた話
みなさんこんにちは、まるです。
今日はタイトル通りの話と前回、前々回に続く物乞いの人に関するお話です。
正直もう正解がなさ過ぎて頭の中で思考がぐるぐる回って止まらないのですが、ここで一つまとめておきたいと思い筆を取りました。
事件は昼過ぎに起きました。
僕はその日午後からマプト市内の学校へ環境教育をすることになっていて、待ち合わせの場所で友人を待っていました。
喉が渇いてバッグの中から水を取り出し、飲んだ後また戻していたところでした。
そこに遠目から上半身裸だったと思います、そんな格好をした6歳ほどの少年が手を出して寄ってきました。
僕は前々の出来事があったので関与しないことを決め込んでいました。
心苦しかったです
何もできない自分に
でも、僕があげてしまうとまた負のループが終わらないと言う考えもあり、根本を変えることが必要というに焦点が当たっていました。
そこに1人のモザンビーク人の若い男性が100mt(日本円で200円くらい)をポケットから出し子供にあげた後、そこらへんで食べ物を買いなさいと言って僕からその子供を遠ざけました。
一瞬の出来事でした。
僕はその時現地人だって収入が無いはずなのにすごいと思った束の間
その男性が僕に向かって少し怒った口調で言いました。
正確には聞き取れなかったのですが
子供が困ってるんだぞ
食べれていないんだぞ
そんな感じのことを言われた気がしました。
僕は唖然としてすみませんと言いました。
それも一瞬の出来事で、彼は去っていきました。
そこから僕の思考はぐるぐると回っています。
根本の解決にならない援助で負のループを続けさせてしまうと言う正論。
今日食べることができなければ、明日をつなぐ命はないと言う現実。
果たして何が正解なのか。
僕はどうすればよかったのか。
もし、あそこで誰もあの子を助けてあげなければ死んでいたかもしれない。
そう思うと次からは。。。
と思ってしまいます。
僕がいつも使う言葉ですが
「正義や正論を振り翳している時が一番危険だ」
と言う言葉が自分に刺さりました。
負のループを続けさせてしまう、その人のためにならない
そんな手前勝手な正論が助けれるはずの命を見放してしまってるのではないかと
自分の視野の狭さに自責の念を抱きます。
協力隊は大きなことはできない
でも小さな種を蒔くことはできる
そんな言葉をふと思い出しました。
確かになんの解決にもならない援助をする事はその人にとって後々不幸になることなのかもしれない
でもそんな大きな問題を解決することは1人の人間では不可能で、それを解決するのは政府や国の役目なのかなと。
では僕にできることはその人を明日へ繋ぐことなのかなと
少し思いました。
だからと言って誰彼構わずお金を振り撒くわけではありません。
そこはまだまだ思慮を深める部分ですが、また一つ自分なりの答えに近づいたのかなと思います。
またこうして振り出しに戻った感じです。
たくさんの人がいろんな考えを話してくれて、それをきちんと精査しないといけないなと思いました。
僕にできることは環境保全しかないが故に余計に悩んでしまいます。
ですが今日はここまでにしておきます。
まだまだ僕の思考の旅は終わらないですが、思い思いのままに事を書き記していこうと思います。
この2年でいつか旅の終点に立てる事を願っています。
それではまた。。