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#25 昔々、はるか遠くの日本で・・・

はじめに、東日本大震災から11年を迎えました。改めて、亡くなられた方々に対し謹んで哀悼の意を捧げるとともに、ご遺族の方々にお悔やみを申し上げます。

千利休も然り、茶の湯の精神でもお馴染みの「侘び」「寂び」に興味を持った。日本人でありながら、日本の文化について多くを知らないことに気づいた。調べていくうちに、はるか遠くの日本人の捉え方は、美的でポジティブ思考であったことがわかった。心の渇きを探る家で、何故そのようになったのかを考えてみる。

なぜ、いい加減でも美しい?

日本人は古来より不完全さ不規則さを良しとしていた。これは、何も考えずにいい加減になることではなく、不完全でも「一旦よし」とすること、曖昧、適当、いい加減であることも美としていた。
季節の移り変わりのように、変わりゆく美しいその情景を、楽しんでいた。
一瞬でも美しいということは、誰にとっても心良いことだ。
「今という時間を大切にしなさい」と、禅の教えのようだ。
そこには、ただ美しいだけではなく、心も豊かにしてくれるのだろう。
この世に完璧などは存在しない、存分であれば、あとは時間の流れに身を任せようと考えていたのだ。心の拠り所を求めていたのだ。
つまり、物が満たされなくとも、美しいと感じる心が人を豊かにする。その時間を紡ぐことで今を丁寧に生きていたのだ。もし古来の満足度調査をしたら、現代よりも高いのではないかと思う。

「侘び」「寂び」

侘びとは、侘しさ、失意や窮乏など自身の思い通りにならない状態でも、それを肯定的に受け入れようとする内面的な豊かさを表したものです。

寂びとは、寂しさ、内面的な本質が表面的に現れていくその変化を美しいと捉える概念を表しています。

何となくではあるが、桜の満開の美しさと散りゆく際に侘び寂びを感じながら眺めてみようと思う心なのかもしれない。

他にも日本の美的表現の中には、無常、もののあはれ、をかし、雅、幽玄、婆娑羅など、侘び・寂びだけでは表せない表現がたくさんある。

寂びの美しさを見出す心が侘びである

引用:クーリエ・ジャポンの茶人・木村宗慎さんインタビュー記事

まとめ

肯定的な人、粋な人は、今も昔も存在する。
完璧でなくとも、心が美しいと感じれば、それが拠り所になる。
そもそも完璧なんてないのだから、ありのままでも良しとしたのだ。死生観、所作、その人の芯から身じみ出る美しさ、清々しく生きることで、余計なものが削げ落ちて、他の人からも美しく見えるのだ。澄み切った水面に映る美しい月のように。
文章もそうだが、不完全だからこそ、そこに想像力が入り込む余地が生まれてくるのだと思えた。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。
godaigenso



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