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「神様に祈ったのか」-安全衛生の現場から-

たけなが社労士事務所の武長です。

前回の投稿から大分日が経ってしまいました。
その間、いろいろな変化(サラリーマンとしての転職)等々あるなかでバタバタしながらも、社労士としてもいろいろな学会や勉強会、そして業務に向き合った日々が続き、なかなか投稿までできなかったのがこれまでです(反省)
これからは、定期的にアウトプットしながら、何かしら安全衛生や両立支援、そして社労士の視点で発信できればと思います。

さて、1発目はタイトル通りです

「神様に祈ったのか」-安全衛生の現場から-

この1年、社労士として安衛法についてある学会で勉強しつつ、かつ、もう一方のサラリーマンとしての役割の中で、調達業務(工事調達)の一環で発注者としての請負工事管理(特に安全衛生:純粋な事務屋なのですが・・・)の機会に接する機会に恵まれました。本当に最新の知見を踏まえた法理論と今まさに直面する安全衛生面での実態とのギャップの中でいろいろと考える機会が多く、本当に悩ましくも勉強になる日々でもありました。(特にどうすれば安全の大切さ(教育)を伝えられるかというところは本当に悩ましい課題でした)

直面する日々の安全衛生の課題。教育の資料収集を含めたいろいろな災害事例の検討・・・「リスクアセスメントの仕組み」があっても起こった他社の災害事例をみて、「うーん・・・どうすりゃいいんだ・・・」と考え込むことも・・・

そんな日々の中、ある勉強会後の懇親会の席で、ある社労士の先生(会社員時代に工場で人事労務・安全衛生を経験)と現場の安全衛生についてお話していたところ、ふとこんな話になりました。

「安全の仕事して以来、毎朝神様に祈るようになったんだよ。今は家に神棚置いて祈っている。」

よくよく聞くと、「どんなに安全のために策を講じても無情にも災害が起こってしまう。無論考え得る物理的・ルール対策は講じるし、担当者としてベストは尽くすのだけれど、人間である以上、完ぺきとは言わない。そうなったとき、やはり最後は毎月の安全祈願で「神様に無事を祈る」ことで気を引き締める。」という話でした(この意味は決して単に「最終的には神頼みだ」ということを言っているわけではありません。)

それを聞いて、自分自身も安全祈願していたことを思い出しつつ、稲森和夫さんの言葉を思い出しました。

「おい、神様に祈ったか?」
「は?」
「焼成するときに、どうかうまく焼き上げてくださいと、神様に祈ったのか?」(中略)
「神様に祈ったか」-技術者らしくない言葉です。
しかし、私は、人事を尽くし、後はもう神に祈り、天命を待つしか方法がないと言えるほど、すべての力を出し切ったのか。自分の身体が空っぽになるぐらい製品に自分の「思い」を込め、誰にも負けない努力を重ねたのか。そういうことを言いたかったのです。

稲森和夫『働き方』2009年、三笠書房、P88-89

製品開発と安全と背景は異なりますが、
〇人事を尽くし、後はもう神に祈り、天命を待つしか方法がないと言えるほ 
 ど、すべての力を出し切ったのか
〇自分の身体が空っぽになるぐらい自分の「思い」を込め、誰にも負けない努力を重ねたのか。
⇒そのときそのときでベストを尽くせたのか。「神様に祈る」行為で問いかける。
最後はそのような問いかけを行うことで、さらに徹底的にリスクアセスメントを行う、作業直前までTBM等を徹底的に行い、考え得るリスクを低減した上で、気を引き締めて作業する(もし違和感を感じれば作業を止める)
といった行動につなげることで少しでも災害のリスクを下げる。
どこの事業所でも行われる安全祈願とはそういう効果があるのではなかろうか。

そう考えると、自分自身も(発注者の立場・社労士という立場で)まだまだできることはあるのではないか。人間には限界はあるけれど、そのときそのときの最善は何か。まだまだやる余地はあるはずだと思うようになりました。

何か精神論に入っているようにも思えますが、どんなに技術や法的知識があっても、十分発揮できなければ意味がない。(ひとたび災害がおこれば、関係者は後悔の日々です。)

まだまだあがく日々が続きますが、持場立場でベストを尽くしていきたいと思います。

皆さまも安全衛生活動に関して何かのきっかけになれば幸いです。





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