生きとし生ける全ての者へ
「俺を呼んだのは・・・お前か?」
六畳程の狭い部屋に、人工の光源では再現出来ないような眩い光共に、悪魔は姿を現した。
「・・・ええ、そうよ。」
部屋の主、というより子供部屋としてその部屋を与えられている女子高生のアカリは、緊張した面持ちで悪魔の問いに答えた。
「本当に、悪魔の召喚儀式なんてものがあったのね・・・」
「その様子だと、何かの偶然で呼び出されたって訳でもなさそうだな。」
悪魔は続ける。
「つまり、悪魔の契約を求めている、と?」
アカリは沈黙を保ったまま、一度首を縦に振る。
「では聞こう、貴様の望みはなんだ?」
生唾を飲み込み、アカリは答える。
「ここで、私を殺して。」
「は?」
それまでの張り詰めた空気が一転、悪魔の間の抜けた声によって空気が変わった。
「いや、嫌ですけど。」
「え、いや、悪魔の契約って何でも願いを叶えてくれるんじゃ・・・」
「ちょっと浮いてるの疲れたから降りるわ。」
焦りを見せるアカリとは裏腹に、狭い部屋への嫌悪感を隠すことなく、悪魔は浮遊を止めアカリの部屋のベッドへ無遠慮に腰を下ろした。
「ったく、中途半端に綺麗な部屋で面白みがねえなあ。」
「ちょっと、なにくつろいでるの?」
「あ?」
本題から少しずつ距離が生まれてきていたのだが、このアカリの一言が悪魔の地雷を踏み抜いた。
「お前、本当に俺がこんな部屋でくつろげると思っているのか?人間界くんだりまで呼び出され、ガキ一人が寝るのに精一杯の部屋にそのガキと一緒に押し込まれているこの状況で、本当に俺様がくつろいでいると思っているのか?」
声量こそさほど大きくはないものの、悪魔は矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「し、知らないけど!あなた契約しに来たんでしょ!本題から逸れないでよ。」
「契約を求めているのはお前だ。俺は別に是が非でも契約が欲しい訳じゃない。」
ああ言えばこう言う。やけに屁理屈の多い悪魔に対してアカリは強い疲労感を覚えた。
“このまま相手のペースに乗せられては駄目だ。無理矢理にでも軌道修正をしよう”
決意を新たに、アカリは今一度自らの願望を伝えた。
「私は悪魔と契約をして、悪魔に私の殺害という願いを叶えて欲しいの。お願い出来る?」
「だから嫌だって言ってるだろ。死にたいなら一人で勝手に死にさらせ。」
躊躇なく却下された事実に納得がいかないアカリは、苛立った感情そのまま言葉を吐き出す。
「なんで?なんでなの?悪魔の契約は何でも叶えてくれるんじゃないの?どうして駄目だの?ねえ、教えてよ?」
「面倒な女だな・・・お前みたいなクソガキにもわかるように、順序立てて教えてやる。」
部屋に現れてから終始不機嫌な悪魔は、険しい表情のまま自分がアカリの願いに応えない理由をつらつらと語り始めた。
「主だった理由は二つ。まず一つ目だが・・・お前、コンビニで買い物をして会計が千円だったとしたら、何で支払う?」
「は、何の話?」
「質問に質問で返すな。黙って答えろ。」
黙るべきなのか答えるべきなのか。どうすればいいかを問うとまた揚げ足を取られることは明白なので、アカリは意図のわからない相手の要求へ素直に従った。
「・・・普通に電子決済だけど。」
「だろうな。まあ今時スマホ一つで支払いは終わる。仮に現金で払うとしても、釣りなしの千円札かそれ以上の額の札、あったとしても百円玉十枚だろうよ。」
「だから、それが何なのよ。」
業を煮やすアカリ。結論に近づいているからそんなアカリの野次に話の腰を折られることもなく、悪魔は淡々と話を続けた。
「もし仮に、一円玉千枚で会計を済ませようとする輩がいたとしたなら、店側はその会計を拒否することが出来るはずだ。つまり、商品に対して対価を支払う準備が出来ていたとしても、店側の都合によってその商品の販売を拒否することが出来る場合もあるってことだ。」
「・・・それが何なの?」
「察しの悪い奴だな・・・」
小言を挟んだ後、悪魔は事の本質に触れた。
「つまり、いくらお前が悪魔の契約を欲したとしても、俺にとってその契約が具合の悪いものになるのなら拒否が出来るってことだ。わかったかクソガキ。」
わざわざピンと来ない例えまで持ち出し、長々と話された内容に対して、アカリは納得出来なかった。
「どうして私の命を奪うことが、あなたにとって具合が悪いの?」
その質問が投げかけられると、悪魔はそれまでの冷静な様子と変わり、急所を突かれたように恥じらい始めた。
「悪魔は契約の対価として人の命を奪うことがあるのに、どうして契約そのものの望みとして命を奪ってはくれないの?」
「悪魔全体、って話になるとそれはまた意味が変わってくるんだけど・・・」
「じゃあなんであなたは駄目なの?」
ここぞとばかりに攻勢を強めるアカリは、ついに悪魔からその理由を聞き出す。
「俺、普通の人間を殺すのが嫌いなんだよ・・・」
「悪魔なのに?」
己の恥部を指摘される時、その指摘が悪意を持ったものよりも素朴である方が、本人は往々にして傷つくのである。
「べ、別に嫌いなだけど、出来ない訳じゃないし。」
「じゃあやってよ。」
「・・・出来ない訳じゃないって言っただけで、やるとは言ってない。」
駄々をこねているかのようなその言い訳は、もはや悪魔とアカリどちらの方が幼いかをわからなくさせていた。
「あ、まだ二つ目の理由言ってなかったが、お前、悪魔と契約する以上は何か対価を支払う気はあるんだろうな。」
「え、だって私の願いは私が死ぬことなんだよ。何かの願いを叶える対価として差し出すことのある命をタダであげるって話だから、そこにさらに別の対価が必要っておかしくない?」
「はあ、お前は何もわかってないな。」
ものの見事に話の本筋を逸らすことに成功した悪魔は、またも得意げにダラダラと語り始める。
「契約によってお前ら人間の希望を叶える。それが俺らの仕事。そしてその仕事の対価としてお前らは俺らに何かを差し出す。お前らの希望で奪った命は、俺らへの対価として懐に入ることはない。そういうことだ。」
こういう複雑な話の時にわかりやすい例え話を持ち出して欲しいと思ったが、そんな苦情以上に、アカリはとある秘策を思いついていた。
「じゃあ、希望を変える。」
「ほう?」
「悪魔の力でこの家に大金をもたらして。一千万でも一億でもそれ以上でも、とにかく可能な限りの大金を。その対価として、私の命を差し出す。これでどう?」
「嫌だね。」
再びの即刻却下に、アカリのフラストレーションも爆発する。
「なんでよ⁉あなたの話通り、きっちり筋通したはずでしょ⁉」
「お前はこの家に大金を残したいとか一ミリも考えてないし、何より狡猾に契約を利用して自分だけ得しようとするその魂胆が気に入らない。」
「結局あんたの感情論じゃない⁉」
声を荒らげるアカリ。
「俺たち悪魔はお前らの望みを何でも叶える力があるんだぜ?そりゃ上からの目線で気にいった仕事しかしないに決まっているだろ。」
需要と供給という概念から見れば、悪魔の論理は至極当然ではあるのだが、まだ高校生のアカリにとって、自分の人生最後と考えている望みすら簡単に実現しないこの現実に、少なくない絶望を感じていた。
「どうして・・・どうして殺してくれないの・・・」
ついには泣き出してしまったアカリへ、いたたまれなくなった悪魔は一連の出来事の根本を尋ねた。
「なあ、どうしてそんなに死にたいんだ?まだお前高校生だろ。いくら人間の人生が百年かそこらで終わる短いものでも、まだまだ序盤も序盤じゃねえか。死ぬにしちゃいくらなんでも早すぎないか?」
「・・・理由を言ったら殺してくれる。」
「嫌だね。」
「じゃあ言わない。」
そう言ったアカリは、膝を抱え、顔を隠し、涙を流し続けた。その光景を見た悪魔はため息を吐いた後、話し始めた。
「悪魔召喚の際に発生する圧倒的な光と騒音、そしてその後俺との会話でお前がきゃんきゃん騒いでいるって言うのに、近所はもちろん同居人の苦情一つない。時間はもうすぐ22時、元気がいいからそのままにしておく、なんて吞気なことを言える程、現代人は元気じゃない。さっさと眠るか酒でも飲んで疲れを取りたい時に、目を逸らしたくなる光や騒音があれば小言の一つや二つ普通はあるはずだ。だがそれがねえってことは・・・」
「悪魔のくせに察しがいいのね。」
「周りが見えない奴に悪魔は務まらねえんだよ。」
顔をあげたアカリは、真っ赤に腫れたままの目で悪魔を見ながら、ぽつぽつと言葉を絞り出す。
「今の世の中、一つや二つ周りから同情してもらえるような所がないと生きていけないのよ。自分にはこんな不幸がある、誰かのせいでこんなひどい仕打ちを受けている、そうやって自慢げに語れるような所がないと、ガチャか何かが当たっただけだとなにをしても認めては貰えない。」
どうして悪魔相手にこんな話をしているのか。そんな冷静さを取り戻す暇もなく、胸から溢れ出す感情は一方的に川下へと向かっていった。
「確かに、私は生まれてからお金に困ったこともないし、勉強や運動、他のことでも大きくつまずいたこともない。だけど、つまずかないだけじゃなくて、飛躍しようと手に入れた結果は間違いなく私の努力によって得たものなはずなのに・・・生まれた境遇が一見恵まれているように見えるから、みんながみんな出来て当然、なんて顔で私を見る。両親と滅多に顔を合わせないなんて悩み、打ち明けた日にはなんて言われるかな・・・」
親と子で暮らす一般的な日本の家と比べ、圧倒的な広さを誇っているはずのこの建物の中で、わざわざ六畳程しかない部屋を我が子にあてがった両親の真意は、一体どこにあるのか。悪魔は柄にもなくそんなことを考えた後、静かに口を開いた。
「お前ら人間、俺たち悪魔、犬や猫や魚やオキアミ・・・全部同じ生き物なんだが、お前ら人間の中には、たまに勘違いする奴が出てくるんだ。」
「勘違い?」
「よくいるじゃねえか。生きる意味は何なのかとか、何のために生まれてきたのかを考える馬鹿が・・・そんなもの、最初から全員決まってんだよ。」
大それた前振りの後、悪魔は自信満々に言い切る。
「生きていることそれこそが、生まれてきた意味であり生きる理由だ。生きることは手段じゃなくてそれ自体が目的なんだ。そんな簡単なことを理解出来ていない連中が、お前ら人間には多すぎる。生きているだけでお前は既に人間として、生物として目的を達成しているんだ。それでも死ぬまで暇なら、いくらでも暇つぶしくらいこの世に転がってるだろ。遅かれ早かれお前も俺も死ぬ。お前ら人間より寿命が長い俺ら悪魔だって、この世の全ての知るには時が足りねえんだ。今日死ぬもの数十年後死ぬのも数百年後死ぬのも大して変わらねえんだから、せめて嫌がる俺に無理矢理人間様を殺せなんて言わねえで、まずはあったかい布団で眠るって暇つぶしから始めたらどうだ?」
悪魔とは思えない、その前向きなメッセージに、アカリは不本意ながら心が動かされてしまっていた。
もう前を向くことを、立ち上がることはないと思っていたのに、この僅かな時間だけで、もう少しだけ頑張ろうという気持ちになっていたのだ。
「・・・誰かに話すと楽になるって、本当なんだ。まさか、その相手が悪魔だとは思わなかったけど。」
「どうだ、少しは生きる気になったか?」
「うん、不本意」
そこで、アカリの言葉は途絶える。
「やっぱり、普通の人間を殺すなんて出来ねえよな。希望に満ちた顔の人間を殺す快感を覚えちまったら・・・」
口の周りについた返り血を舌で拭き取り、悪魔はその場を立ち去った。