見出し画像

『喜劇』

2022年初となる星野源のニューシングルがリリースされた。

4月7日の夜。私はいつものごとく0時になった瞬間リンクを開いて曲を聴けるように待機していた。
0時になり、はやる気持ちを抑えリンクを開く。
一度目は目を閉じて音やリズム、グルーヴを楽しむ。次に歌詞を見ながら聴く。三度目にまた歌詞を見ながら聴く頃には私はボロボロ泣いていた。
なんだか分からないが涙が止まらなかった。ひとり深夜のリビングでそこから数十分間、曲を何度も再生しては止めを繰り返し、ひたすらに涙を流していた。

『喜劇』には、星野源という人間が詰まっていると思う。

"争い合って 壊れかかった
 このお茶目な星で
 生まれ落ちた日から よそ者
 涙枯れ果てた
 帰りゆく場所は夢の中"

というAメロからは、これまでの星野源作品に通ずる圧倒的にひとりであるという感覚や深い絶望、傷つき疲れ果てたひとりの人間の静かな怒りや皮肉が感じられる。昔から一貫して変わらない星野源の根底にあるもの。「帰りゆく場所は夢の中」という歌詞からは、本当は自分の殻に篭るのではなく外へ行きたい、行かなくちゃ、「夢の外へ連れてって」とどこかで思っていながらも、結局自分の心が1番休まる夢の中へ帰ってきてしまう、涙の果てに夢の中に帰るしかない僕(または私)という人物がうかがえる。これだけでここまで星野源が詰め込まれているのも凄い。

しかし次のBメロでは、明らかな変化が生まれる。

"零れ落ちた 先で出会った
 ただ秘密を抱え
 普通のふりをした あなたと
 探し諦めた
 私の居場所は作るものだった"

圧倒的なひとりであった"僕(または私)"は、同じく圧倒的なひとりであった誰かに出会う。同じように零れ落ち、普通のふりをした"あなた"という存在。僕の中で諦めていた何かが動き出すのが感じられる。ずっと探し求めては傷つき、いつしか諦めた私の居場所は作るものだったのだと気付く。そして、

"あの日交わした
 血に勝るもの
 心たちの契約を"

というサビ前の歌詞とその歌い方からは、ずっとひとりで生きてきた僕が、誰かと共に歩むということを選んだ強い決意を感じる。
血の繋がっていない者同士が出会い、惹かれあい、共に暮らすということの不思議。僕はあなたと出会ったことにより、その"血に勝るもの"を見つけ、"心たちの契約を"交わしたのである。

そして、昔から変わらない星野源の音楽的ルーツと、新しいものを次々と取り込んでいく最近の星野源の音楽性が爆発したようなサビ。

"手を繋ぎ帰ろうか
 今日は何食べようか
 「こんなことがあった」って
 君と話したかったんだ
 いつの日も
 君となら喜劇よ
 踊る軋むベッドで
 笑い転げたままで
 ふざけた生活はつづくさ"

「手を繋ぎ帰ろうか」「今日は何食べようか」など、夕暮れ時を思い起こさせるセリフに、そう言って微笑み合う者たちにしか生み出せない親密感が溢れている。わたしは特にその後の「『こんなことがあった』って 君と話したかったんだ」という歌詞がなんとも大好きで胸がキューっとなってしまう。大切な人と家路に着くしあわせ。それぞれが見た、味わった景色を「君と話したかったんだ」と言える人がいるしあわせ。どんな悲劇も、どんな地獄も君といることで喜劇に変わる。それぞれの地獄を持った者同士が寄り添い再生していくかのような温かさがある。

"劣ってると 言われ育った
 このいかれた星で
 普通のふりをして 気づいた
 誰が決めつけた
 私の光はただ此処にあった"

2番のAメロでは、これまで僕がひとりで生きてきた時間の蓄積が感じられる。意味の分からない理解のできないことばかりのこのいかれた星で、劣ってると言われ育ってきた僕がこれまでに見てきた景色。ずっと自分の中に違和感を溜めながらも普通のふりをして生きてきた僕が、絶望の先にやっと何かを見つける。そして次につながる。

"あの日ほどけた
 淡い呪いに
 心からのさよならを"

私はここが大好きすぎて本当に涙が出てしまう。
これまで世界に馴染めなかった僕は、世界を呪い、同時にそんな自分自身を幾度となく呪ってきたことだろう。"呪い" に 対し "ほどけた" と言うところも、"淡い" と "呪い" という一見対照的な言葉を組み合わせるところも、それら全てが絶妙なニュアンスを生み出している。ずっと自分自身を縛り付けていた淡い呪いに、誰かと出会うことによって心からのさよならを言える。これほど幸せで温かいことがあるだろうか。

"顔上げて帰ろうか
 咲き誇る花々
 「こんな綺麗なんだ」って
 君と話したかったんだ
 どんな日も
 君といる奇跡を
 命繋ぐキッチンで
 伝えきれないままで
 ふざけた生活はつづく"

2番のサビでは1番のサビと同様、大切な人と共に歩き、家路に着く光景が浮かんでくる。きっとそれぞれひとりの時は下を向いて歩いていたのが、自分ではない大切な誰かといることで「顔上げて帰ろうか」と言える。祝福するかのような花々に気づきその綺麗さに感動できる。
いろんな人がいて、いろんなことがあるこの星で君といられることは奇跡であり、それは言葉では伝えきれない。それでも共に暮らし、共にご飯を食べて、共に時を過ごして、ふざけた生活は続いていく。
"命繋ぐキッチン" "ふざけた生活"。このワードセンスがまた愛くるしい。

"仕事明けに
 歩む共に
 朝陽が登るわ ああ
 ありがとうでは
 足りないから
 手を繋ぎ"

曲の調子が変わるこの部分では、シーンが明け方になる。それぞれの仕事を終え、向かう先に待っている人がいる。ひとりではなく誰かと共に歩み、朝陽を迎える。それぞれに事情を持った個人だからこそ、お互いに伝えきれない想いや背景を汲み合っているからこそ生み出せる温かさがここにはある。「ありがとう」や他のどんな言葉でも足りないけれど、お互いの温もりをたしかに感じ合っている。その心地よさがここには溢れている。

"さあうちに帰ろうか
 今日は何食べようか
 「こんなことがあった」って
 君と話したかったんだ
 いつの日も
 君となら喜劇よ
 踊る軋むベッドで
 笑い転げたままで"
"永遠を探そうか
 できるだけ暮らそうか
 どんなことがあったって
 君と話したかったんだ
 いつまでも
 君となら喜劇よ
 分かち合えた日々に
 笑い転げた先に
 ふざけた生活は続くさ"

「さあうちに帰ろうか」から再びサビが始まり、「笑い転げたままで」に覆いかぶさるように続く「永遠を探そうか」「できるだけ暮らそうか」という言葉。永遠などあるかどうかは分からない。それでも君とならどんなことも喜劇になるから、一緒に探してみてもいいんじゃないかという気持ちになる。それまでできるだけ暮らそうかという気持ちになる。
この曲では語りかけの言葉の語尾にすべて「か」がついているのだが、この「か」がまさにこの曲の柔らかく温かな雰囲気を作り上げていると言えるだろう。「〜よう」ではなく「か」が付くことによって、相手を慮っている柔らかな雰囲気が生まれる。決して自分主体ではなく、お互いの気持ちを大切にして、一緒にいられる時間を大切にしているように感じる。

そうして分かち合えた日々に、笑い転げた先に、ふざけた生活は続く。「笑い転げた」や「ふざけた」という言葉からは楽観的なイメージを持つが、日々は決して楽しいことばかりではない。「笑い転げた」の裏には数えきれない辛いことや悲しいことがある。しかし、それも汲んだ上で、このクソみたいな世界で、君との「ふざけた生活」は続いていくのだ。

いいなと思ったら応援しよう!