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<連載> 小竹直人・原初の鉄路風景 Vol.4 寝台列車の記憶
1982年3月。東京駅で寝台特急さくら、はやぶさ、みずほ、富士を見送って、あさかぜ1号のA寝台個室(24系)に乗り込んだ。その佇まいは、狭いながらもなにか優雅な気分にさせてくれた。そして、あさかぜ1号は18時半過ぎ、東京駅を発車した。徐々に加速しながら都会の駅を通過して行く。
ホームではタブロイド紙を広げたサラリーマンたちが立ち並ぶ。並走する山手線や京浜東北線の満員電車を眺めていると、旅と通勤とでは目的は全く異なるが個室寝台車をさらに特別なものとしてくれた。
都市部を抜け出すと車窓の賑わいと自身の興奮も収まり、列車は坦々と西へ博多へと走る。どこで就寝したか定かではないが、次の停車駅は岩国というアナウンスで目が覚めた。岩国を出たあさかぜは海岸線に沿って走り、朝陽は煌々と瀬戸内海を照らす。その美しい車窓風景に目を奪われ、海岸線が途切れるまで車窓を眺めていた。
3月の日本海側はまだまだ天候が不安定で、ときに降雪もあり晴れ渡ることは少ない。日本海側の人間からすると眩しいくらいの朝陽であり、それがよけい沁みたのだろう。
そして、博多から九州を1周して大阪まで戻った。それは大阪発新潟行き寝台特急「つるぎ」に乗るためである。新潟到着まで10分弱、寝台列車の車窓から見慣れた街並みを過ぎてゆく光景は、ひとつの旅の達成というか充足感を与えてくれた。
これらの光景はいまも心に遺る車窓風景であり、写真を撮るようになってからもときどき思い出していた。なぜなら、写真にすることが出来なかったからだ。その想いをいまこうして書いているが、映像の力には到底及ばない。
初めての寝台列車は保護者同伴だったが、中学生になると鉄ちゃんの友人も出来たことから同級生と一緒に東京へ行くことになった。当初友人の母はまだ中学1年なのにと難色を示していたが、私の僅かな鉄ちゃん経験知を信用してくれたらしく、承諾してくれた。
中学校の教室から信越本線を通る列車が見え、屋上から上沼垂操車場(現・新潟車両センター)を一望する環境から鉄ちゃんの友人が出来たのは必然だったように思う。
新潟から東京すなわち上野へは、特急「とき」あるいは急行「佐渡」かの選択。ひねって秋田発の「急行天の川」となるが、新潟から一旦直江津に行って、10系客車寝台の「急行妙高10号」を友人に提案したところ、意気投合した。
急行妙高は直江津を21時59分に発車して長野までほぼ各駅停車で上野には翌4時47分に到着する。臨時の妙高8号の除けば最も早く上野に到着する列車であり、その分東京での行動範囲時間的余裕が出来るのだ。
鈍行列車が急行列車になる長野辺りまで友人と語り合っていただろうか。ふと目を覚ますと明るくなっている車窓を見て慌てて最後尾に向かった。デッキに立つとひんやりとした風が無遠慮に吹きこんできた。列車は夜明け前の薄靄の中を走り、東十条を駅を通過した。また東京に来たという高揚感と、あともう少しこの10系で過ごしたいという思いが交錯するなか急行妙高10号は上野に到着した。
繰り返すが瀬戸内海の眺め、10系デッキからの光景は私にとって忘れえぬ鉄路風景である。いづれの車両も既に存在しないが、車両は異なってもあの時に体験した空気感を写真にしたい思いが今日まで写真家としての原動力にもなっている気がしている。
ちょっと長い余談になるが、最後に乗った寝台列車(ブルトレ)は「あけぼの」であった。それは1996年11月だったと記憶している。その乗車当日の朝、夜行列車で北京に到着し、午前便で帰国した後に上野から東能代に向かった。中国から日本へ夜行連泊というスパルタンな行程だが、国は異なれど寝台のベッドに座った瞬間の安堵感は疲れを癒してくれる。
さて、なぜ東能代かといえば、当時五能線の旅という写真展を3ヵ月後に控え最後の撮影に赴いたのだ。現場では写真雑誌「カメラマン」の名物連載企画「カメラマン最前線」の取材インタビューを受ける目的もあった。東能代であけぼのを見送り、坂本(当時デスク)さんと同行カメラマンとライターさんらと合流した。
今年3月、元カメラマン編集長の坂本直樹さんのあまりに早すぎる訃報に触れた。そして、「あけぼの」に乗ったあの日のことを思い出していた。振り返ってみれば、数ある写真雑誌のなでもっとも私の作品を数多く掲載していただいたのが「カメラマン」誌でもある。感謝とともに、こころからご冥福を祈りたい。
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このころはカメラ操作もまだおぼつかなかったが、「へた」という駅名表示板がファインダーに飛び込んで思わずシャッターを切った1枚だった。
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381系「やくも」の車窓から交換列車を狙っていたら、寝台特急「サンライズ」が過ぎ去って行った。サンライズは唯一の寝台列車であり、喫煙席がある唯一の列車でもある。いつまでも走り続けて欲しい列車である。
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OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 8-25mm F4.0 PRO
![](https://assets.st-note.com/img/1725763554-C4PiNV3B12gjo8Qxkh9u6R5Y.jpg?width=1200)
OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 8-25mm F4.0 PRO
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OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 8-25mm F4.0 PRO
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岸本駅から線路沿いを歩いていると水田の中にハウスのゲージが設えてあった。稲作が終わるとイチゴを栽培するそうだ。国鉄色と呼ばれる特急電車を撮影したのは何年ぶりだろうか。あらためて国鉄色は日本の風景風土に似合っていると再確認した。
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米子駅から1キロほど歩いた先の線路脇で、大汗をかきながら雑草を刈っているお爺さんと出会った。JRからの委託ですかと尋ねたら、「そうやったらええどな」。自身の田んぼの水をひく用水路周辺の草刈りついでに線路端の雑草も刈っているという。
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米子市内に戻る途中、年季の入ったアパートを見つけ、山陰本線の列車を待った。何気ない写真ではあるが、デジタルシフト機能を使って撮影している。
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米子からやくもに乗って倉敷で下車して、総社に戻って吉備線で岡山へと向かった。10代のころのように鉄道やバスに乗りついで撮影した。鉄道写真で主な被写体となる列車移動の撮影は効率的ではないが、新たな気づきや発見がある。それは、写真において最も大切なことである。
筆者紹介
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小竹直人(こたけなおと)
1969年新潟市生まれ。日本写真芸術専門学校卒業後。フォトジャーナリスト樋口健二氏に師事。
1990年より中国各地の蒸気機関車を取材し、2012年~17にかけて中朝国境から中露国境の満鉄遺構の撮影に取り組む。近年は、郷里新潟県及び近県の鉄道撮影に奔走し、新潟日報朝刊連載「原初鉄路」は200回にわたり掲載され、以降も各地の鉄道を訪ね歩いている。
近著に「国境鉄路~満鉄の遺産7本の橋を訪ねて~」(えにし書房)などがある。
Vol.3はこちら
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