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<連載> 小竹直人・原初の鉄路風景 Vol.6 黄昏の山峡  

“黄昏の山峡”とは1983年鉄道ファンCanon鉄道フォトコンテストで金賞作品のタイトルである。山陰本線保津峡駅を俯瞰した作品で、機材はマミヤRB67でレンズは360㎜。作者は野沢敬二さん。
印象的な作品であり、同じ場所に立ちたいと思い始めた。67判の360㎜は35㎜版換算で180㎜相当であり、当時Nikonの200㎜のレンズを所有していたから対応できるだろう。そうした思いからも保津峡へ行く計画をたてた。
最寄りの越後石山駅から朝一番の直江津行き普通に乗って、直江津から後続の特急雷鳥に乗り継いで高岡で下車して氷見線や城端線を撮影して最終の雷鳥に乗って京都に向かう。
その計画を級友のマサルとケンイチに話していたら、彼らも年明けに越後湯沢に乗り鉄に行くというから、日時を合わせて長岡まで一緒に行くことになった。
1984年1月5日、昨晩から降り始めた雪は膝元くらいまで積もり止む気配もない。車の轍や足跡もない新雪に覆われたいつもの道を歩いて駅に向かった。やがて楽しそうに話しながらマサルとケンイチが現れた。
平野部(新潟市内)ですでにこの積雪であるから、湯沢あたりならもっと凄いことになっているのではないか。彼らはまだ見ぬ豪雪地帯の光景にワクワクしていたようだった。
列車が見附を過ぎたあたりだったろうか、旅は道ずれとばかりに2人に湯沢ではなく青海川も面白いと提案した。提案とは書いたが、ちょっと強引に誘った。マサルがなびきそうになったようだが、ケンイチは絶対に湯沢に行きたいと譲らなかった。長岡で下車する2人に「じゃ、学校でな」と言って別れた。
高岡周辺で撮影して予定通りに京都に着くと、みぞれ混じりの雪が降り出した。日付けが変わる頃になると、京都駅周辺は一面の雪景色となっていた。そして保津峡駅に降り立つと、およそ24時間前にいた新潟と変わらぬほどの積雪があった。関西、京都という地域に雪のイメージを持たなかったことから、望外な展開に撮影意欲も高まる。
ホームから保津川にかかるつり橋を渡り道路に出る。左折か右折するか。その俯瞰場所へは右折して京都方面に向かうということを後に知ったが、その時は直感的に左折してしてしまった。下調べもなく勢いで保津峡に行けば何とかなるという安直な思い込みからだ。その出た所勝負泥縄的な撮影スタイルは、当時も今も然程かわらない。
結局、雪化粧した山峡を俯瞰することなく保津峡を後にしたことに多少の後悔はあったが、帰路を急いだ。明日から新学期が始まるからだ。
午後8時前くらいに帰宅すると、父から「一緒に汽車乗った仲間が死んだみたいだぞ」と、一言いいながら朝刊を差し出した。
長岡で別れておよそ7時間後となる13時半過ぎ、岩原スキー場前駅で13歳少年(ケンイチ)が小出行の回送列車にはねられて亡くなったと記されていた。ホームの下に出来た大きなツララを取ろうとマサルとともにホームに降りたところにまさかの回送列車が来てしまった。
きっと盛大にタイフォンを鳴らされたことだろう。そうなる前に列車の音に気が付くところだが、新雪は辺りの音を吸収するからタイフォンによって迫り来る列車に気が付いたのかもしれない。マサルは直ぐにホームによじ登ったが、ケンイチはホームに一旦手をかけたが滑り落ちてしまったという。
この事故以降もマサルと友達付き合いをしていたが鉄道の話をすることはなくなった。
そして、私は中学を卒業して数年後に、上京した。それから幾度となく上越新幹線ときに18切符を利用して在来線で帰省したこともあった。上越国境の長いトンネルを抜けるたびに、あの日の出来事を思い出していた。

ちょうど30歳を過ぎたころ仕事で帰省したときに、偶然マサルと卒業以来15年ぶりに再会した。共に過ごした中学校近くの居酒屋で、当たり前だが初めてマサルと飲んだ。マサルは板金塗装の職人になり、私はといえばカメラマンのような撮影仕事から新聞雑誌に寄稿したりしていた。カメラマン業は納得することころだが、駄文というか原稿を書いていることに、マサルはゲラゲラ(マジかよ!)と笑いながらも驚いていた。私自身もこのようなことになるとも思ってもいなかった。
酒も進みお互い口も軽くなり、ふとした思い付きから“あの日”のことを書いてみようと思うとマサルに伝えた。この再会から、郷里新潟の鉄路というか、これまで辿ってきた鉄路に思いを馳せるようになった。
それから、帰省のおりに中学時代に通った撮影地からローカル線の廃線跡、岩原スキー場前駅まで、何度か訪ね歩いたが、写真にすることはなかった。
このテーマへの取り組み方というのかアイデアが浮かんでは忘れてを繰り返していた。心の片隅にその思いはありながらも、またいつしか15年の歳月が流れ、あの日から30年が経ち45歳になった。
そのころと言えば、中国北朝鮮の国境鉄路の取材が佳境を迎えた時期であった。あるとき中国図們国境の鉄道橋を俯瞰して、いつ来るかもわからない北朝鮮からの国際列車を待っていた。いまは越境することのできない国境だが、その鉄路は北朝鮮清津へと続き満洲時代は日本への連絡経路であり、新潟へと続く鉄路であったことをあらためて知る。
私が10歳まで暮らした場所は新潟の港へと続く貨物線が通っていたと書いた。中学生になって写真を始め、それはやがて中国のSLと出会いに繋がり、最終的には中朝国境へと誘ってくれた。全ては鉄路によって結ばれていたのだ。国境取材は、自身が越して来た郷里の鉄路に、またあらためて思いを寄せるきっかけとなった。
少し長い余談になるが、コロナが蔓延しつつあった2020年3月にリコーイメージングギャラリー大阪にて私が主宰するグループ展を開催した。その際に大阪の知人が幹事となって関西の鉄道や写真関係者を招いて宴会を開いてくれた。その名簿に野沢敬次さんの名前を見つけた。書くまでもないが、関西の鉄道写真家として知られる。
野沢さんの作品を初めて見たのは冒頭に書いた。以降鉄道誌から週刊誌まで何度も作品を拝見してきたが、宴会で初めて野沢さんとお会いした。そこで、保津峡のエピソードから鉄道、写真談義でおおいに盛り上がった。楽しい夜だった。
当時コロナがどういう展開になるかもわからない状況ではあったが、また来年大阪で会うことを約束した。それから半年が過ぎた、11月にSNSで野沢さんの訃報に触れることとなった。
「黄昏の山峡」は、今も鮮明に記憶にある忘れえぬ作品である。


OM-D E-M1MarkⅡ / M.ZUIKO DIGITAL ED 30mm F3.5 Macroにてデジタイズ
1984.1.6撮影
OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO

40年ぶりに同じ場所に立つ。旧山陰本線は1991年から観光路線としてトロッコ列車が走る。手前は保津峡駅ホーム。本線の列車とトロッコ列車をシンクロさせたいと考えたが、そのタイミングは難しい。


OM-D E-M1MarkⅡ / M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO

岩原スキー場前駅のホームにて。


OM-D E-M1MarkⅡ / M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO

岩原スキー場前駅上り(長岡方面)ホームからの眺め。


OM-D E-M1MarkⅡ / M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO

青海川駅にて、ホームから日本海を望む


OM-D E-M1MarkⅡ / M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO

本格的に鉄道写真を撮るようになって、初めて遠征に行った場所が青海川駅だった。


OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO

雨晴海岸をゆくキハ47。


OM-D E-M1MarkⅢ / M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO

氷見線の能町周辺は工場地帯で港へと通じる貨物線がある。その光景は私が生まれ育った新潟の山ノ下や沼垂(ぬったり)の原風景を彷彿とさせた。


OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO

城端線の沿線にある新興住宅地の一角でキハを待つ。ここにベビーカーを押すママがやって来ないかなと想像する。すると、黄色い帽子を被った小学生が通りすがって行った。それは、キハが通過する2~30秒前のことだった。


OM-1 / M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO

富山県は持ち家率全国1位であることで知られる。田園地帯に大きな邸宅が散見された。


筆者紹介

小竹直人(こたけなおと)

1969年新潟市生まれ。日本写真芸術専門学校卒業後。フォトジャーナリスト樋口健二氏に師事。
1990年より中国各地の蒸気機関車を取材し、2012年~17にかけて中朝国境から中露国境の満鉄遺構の撮影に取り組む。近年は、郷里新潟県及び近県の鉄道撮影に奔走し、新潟日報朝刊連載「原初鉄路」は200回にわたり掲載され、以降も各地の鉄道を訪ね歩いている。
近著に「国境鉄路~満鉄の遺産7本の橋を訪ねて~」(えにし書房)などがある。

Vol.5はこちら


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