<連載> 小竹直人・原初の鉄路風景 Vol.1 信越本線貨物支線
私は10歳まで新潟市東区の大山町で過ごした。実家の玄関を開けた先には数本の煙突が聳え、常に煙が立ち上がりその風向きによっては妙な匂いがしていた。夜になれば煙突やその工場群はライトアップされ煌々と夜空を照らし、不気味な様相だったと記憶していた。今風にいうなら、“工場萌え~”的な光景だ。
その工場とは、焼島駅に隣接する北越製紙(現・北越紀州製紙)だった。かつて焼島駅から東新潟港駅(1.7㎞)まで貨物線があり、1998年11月まで貨物列車が運行されていた。その貨物線が実家の傍らを通り、時々踏切の警音を耳にしていた記憶があった。初めて鉄道というか汽車を認識したのは小学生になってからだ。
登下校時にその踏切に遮られたなら最悪。貨物列車の入れ替え作業で5分やそこら待たされる。鉄道との邂逅は、子どもながらにも本当に鬱陶しい存在でしかなく、警音なったら全速力で踏切を駆け抜けた。
もちろん当時は、機関車や貨車のことなど知る由もない。後に調べると、機関車はDD13で貨車はタキ10000形などのタンク車だった。もし、DD13ではなく蒸気機関車だったなら全く別の印象を持ったかもしれない。ちなみに、1960年代半ばあたりまでC57が入線してたいたという話も聞いた。しかしながら私は1969年生まれですから全然間に合っていない。
私の鉄ちゃんデビューはそれから5年経過してのこと。(その経緯は後日)
それから半世紀余り。その間、帰省の折に何度もこの場所を訪れていたが、写真にすることはなかった。話は前後するが2011年から16年に至る5年間、中朝路3国の国境にある満鉄遺構をテーマに取材した。遺構であるゆえ、ほぼ廃線跡撮影だった。文献資料を読み解きながら取材撮影を進めてゆくなかで郷里である新潟(港)は、朝鮮満洲への日本海側の玄関口であり密接につながっていたことをあらためて知る。それは、私の始まりの場所である、港湾へと通じる貨物支線にまた思いを馳せることとなり、本格的に撮影する大きな原動力となった。そして、2017年から支線のみならず郷里新潟の鉄道を中心に撮影することになった。
余談ながら、オリンパスOM-D E-M1MarkⅡの登場(2016年末)によって、この年(17年)から私の機材は全てオリンパス(現OM SYSTEM)に切り替わった。
事実上廃線状態となって20年が経過し、蔦は線路から信号機にまでに這い上がり大きな木を作り上げた。
信号機に絡みついた蔦は、20年月日が作り出したアート作品。
踏切小屋は撤去されることもなく蔦の葉に覆われていた。
新潟鐵工大山工場の移転、昭和石油新潟精油所の閉鎖から廃線となった。それからしばらくの間このヤードに朽ちた20系の電源車が放置されていた。
線路に何が通るかも知らなかったが、この辺で遊ぶと母から注意された記憶がある。
通船川を渡る短い鉄橋もきれいに残されている。対岸は旭カーボンのプラント。
1998年11月運行停止。2002年休止という扱いから線路はしっかりと残されているのか。
東新潟港駅跡のヤードに残された手動式ポイント。
東新潟港駅跡のヤードに残された車止め。
同級生を追いかけて下校する児童たちが通り過ぎていった。青い鉄橋は2010年に廃止となった沼垂駅(貨)に通じていた。2024年5現在、鉄橋の撤去解体工事は始まっていた。
この道の先にある踏切は沼垂駅に至る路線が廃止となって以降も、その佇まいを残し近隣住民の生活道路として残っている。後日長屋で唯一営業する居酒屋「ちゃこ」に赴いた。店主は80歳になるというお婆さんだった。若いころはママは山本富士子に似ていると評判になり、店は繁盛したという。
筆者紹介
小竹直人(こたけなおと)
1969年新潟市生まれ。日本写真芸術専門学校卒業後。フォトジャーナリスト樋口健二氏に師事。
1990年より中国各地の蒸気機関車を取材し、2012年~17にかけて中朝国境から中露国境の満鉄遺構の撮影に取り組む。近年は、郷里新潟県及び近県の鉄道撮影に奔走し、新潟日報朝刊連載「原初鉄路」は200回にわたり掲載され、以降も各地の鉄道を訪ね歩いている。
近著に「国境鉄路~満鉄の遺産7本の橋を訪ねて~」(えにし書房)などがある。