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今年もまた瞼の裏にきらめきがこびりついて消えない

1年にたかだか数回程度。今年に至っては1回きり。

それでも、彼を見た後必ず、瞼の裏でしばらくきらめきの残像がまたたく。




きっかけらしいきっかけは多分ない。
でも、デビュー発表時の彼の表情のことは今でも鮮明に思い出せる。

近しい友人が彼らの事を応援していたり、当時同じ事務所の先輩を追ったりしていたので、彼らの事はなんとなく知っていた。ライブも映像で見たことがあった、はず。

2021年7月28日。

友人のSNSから、「彼らがデビューを焦らされつづけ、渇望していること」「もしその年デビューできるなら、発表はこの日の可能性が高いこと」も、なんとなく知っていた。

リモートワークの片手間、なんとなくその日のコンサートのMC配信を観た。たぶん、リアルタイムの公式の配信じゃなくて、アーカイブか、最悪だれかの切り抜きだったと思う。

本人たちにすら秘匿されたうえでの、サプライズのデビュー発表。
焦らされ期待させられ落胆させられ、幾度もストーリーの主人公として消費されてきた彼らにうってつけの、残酷な発表の仕方だと思った。

でも、同時に、虚像らしくてとても綺麗だなと思った。大いなる意志による仕掛け意図通り、素直に感動もした。


その人は、その中でも一番うつくしいまなざしをしていた。
その時、私が彼の名前を知っていたのか、そうでなかったかすら思い出せない。
ただ、そのまなざしの「絵」だけが脳裏に焼き付いた。


その程度の出会いである。





彼に関して強い感情を持った記憶として思い出せる一番古い記憶がそれなので、形容する人によってはここを「きっかけ」と名づけるのだろう。

ただ、私の捉えている言葉の定義では、そのまなざしに対する感情は「きっかけ」と言うにはあまりにも永続的すぎるのだ。




初めて彼を生で観測したのはその次の年に開催されたデビューコンサートだった。
私に彼らのことを教えてくれた友人と一緒に広島にまで出向いちゃって、浮かれて浴衣なんか着ちゃった割に、席はスタンドの後列寄りの中列。なんでもない席だ。
「生で見られるだけラッキーだな」と魂の形を整えて楽しむ準備をする、そんな席。


それでも、「あのまなざしと、目が合った」と思った。しかも、何度も。

もちろん、実際はきっと全然合ってない。いちばん良くてギリ、「ペンライトで青色(メンカラ)を点灯している奴だな」とコンマ数秒間だけ向こうの脳内によぎる、くらいだったろうと思う。


でも、主観では、目が合った。

あのまなざしが、こんな席の、わざわざ浴衣を着たとて特にパッとしない、埋没した有象無象にも与えられるのか、と思った。


私はその時期、なんか私生活がめちゃくちゃだった。血縁がある人もない人も含めて、とにかく親しくて身近な人たちとの関わりが、自業自得だったりそうじゃなかったり色んな理由で揺らいでいて、
とにかくめちゃめちゃだった。
その時のことがあまりよく思い出せないのがその証左だと思う。それこそ広島の連番をした友人の優しさに甘えて電話口で大泣きした記憶しかない。その節はありがとう。


ともかくそんな感じでめちゃくちゃだったので、大げさだけど、冗談抜きで「助けに来てくれた」と、その時思った。

その日の夜、泊まったホテルで友人におやすみを言ったあと、1人でそのまなざしを思い出してさめざめとしばらく泣き続けていた。




それ以降、コンサートに入るたびに思う。彼はいつだって会場のすべての青色を見ている。そうでなければ説明がつかない挙動をしている。

驚くべきことに、遠くの席にいる時の方がそう思うことの方が多い。
広島で連番した友人が「彼が会場の一番遠い席に座って、見え方を確認する様子がドキュメンタリーで切り取られていた」と教えてくれたので、たぶん本当に意識しているんだろう。遠くからでも彼を見つめる観客の事を。

それほどまでに、どこにいても必ず、「目が合った」と思えるのだ。
去年も、今年もそう思った。きっと来年も再来年も、わたしが彼を見に行く限りそう思うのだろう。

目が合うたびに、彼のまなざしをうつくしいと思ったあの瞬間の事を思い出す。

そうして、彼に初めて強い感情を抱いたその時に、ループするように引き戻されて、大好きとありがとうが塗り重なる。

毎年、その繰り返しだ。



アイドルも役者も芸人もインフルエンサーも、芸能職従事者が消費者に見せる姿は虚像で、私にとってその虚像は消費対象だ。それ以上でも以下でもない。
リアルを生きる私と同じ人間が、人より恵まれた容姿やスキルを駆使し、高度な技術と労力をもってして虚像を作り出している。
少なくとも私は、いつだって、誰の事だって、自分の楽しみのためだけに、その虚像を消費し続けている。私はこの行為を罪悪だと思っているが、そのうえで、尚。

もちろん、虚像を作り出す主体であるところの、実像としての彼らには敬意を持ち続けたい。実像の方は守られて、優しくて綺麗な言葉だけを受け取り続けていてほしいと思う。

虚像を消費する姿勢と、実像をおもんぱかる気持ちはいつだって拮抗するし、いつだって両立が難しいと思い続けている。相手となるタレントによっても自分の中のバランス感覚が変わるので、永遠に両立の仕方を間違える日々なんだろう。

でも、そんな自分の彼に対する態度は、他のタレントに対する時と比べて、いっとう軽薄であるように思う。誇ることでもないのであえて使うことを避けたが、まあ無礼と形容しても良いだろう。

情報も全く追っていないくせに、コンサートにだけは最低1回は入りにいく不良オタクをしながら、なんとなくの「彼のふるまうタレント像」の上澄みを断片的につまみ取っては、軽々しい態度で言及をしたり、しなかったりしている。

私が従事するタレント消費行為の中でも、最も「消費」という言葉が似合う形態だと思う。
(声を大にして言いたいが、まったくもって褒められた態度ではない。本当なら今すぐやめたほうが良いと思う。)



でも、彼はあの、深くて強いまなざしをもってして、それを許すように見せてくれる。
それに私はいつだって甘えている。

こんなに日々消費を後ろめたく思う自分が、こんなに都合よく、身勝手に、消費できている。



これを最上級の虚像と言わずして何と言おうか。



もちろん、彼は私と違って明るく快活な人なので、実像だの虚像だの、そんな斜に構えたことはきっと考えてないだろう。いや、わからない。思慮深く、そして長年芸能職に従事している人だから、もしかしたら考えているかもしれない。わからない。何も。

わからないところが大好きだ。

わからないところを、わからないまま保留にしたうえで、手放しで彼の彼らしいキャラクターを消費させてくれる、その徹底した「お芝居」が好きだ。

文脈をろくに知らなくても、否応なく感情が掻き立てられる、あの圧倒的なまなざしがいつまでも大好きだ。



藤原丈一郎さん いつもたいへんお世話になっております。
今年もありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。






とはいえいろんな理由から、さすがに茶の間すぎるとMVとかコンサートの予算が……とか、現実的なことを、彼や彼ら自身ではないいろんな要素から今回痛感したので、さすがにもう少し改めようと思ったりしました。


この記事ですぐにできることはまあ宣伝だろうか。
と言っても、これはギリ読まれて彼やグループのことを知っている人までな気がするのであんまり意味ないかも。

グダグダ言いつつ、今年のアルバム曲のMVを貼っておきます。


ちなみに今年のツアーのアルバムはありがたいことにサブスクでも聴けます。



あと余談だけど記事に何回も出てきた広島連番友人の、もっと大事にかれらのことを想っている記事が素敵なので勝手に貼ります。
(超勝手に貼ってるので執筆者本人は問題があったら怒ってください。)


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