飛んで火に入る岸田首相〜外交とは外国交際のことなり〜
岸田首相のウクライナ訪問は何もなく終わった。幸か不幸か衆目はWBC日本の優勝への熱戦に注がれ、海外メディアは習近平のプーチンとの会談に関心を寄せた。
驚いたのは首相がゼレンスキー大統領に「必勝」の文字と「岸田文雄」の署名入りの50センチ大のしゃもじを贈ったという話。首相の地元の広島・宮島のしゃもじは「敵を召し(飯)取る」との験担ぎに使われているとのことだ。
ロシアとの戦いに勝つことを託したのだろうが、今行われているのは国と国の武力による争いであり、選挙でも受験勉強でもないのだ。はたまたスポーツの試合でもない。殺し合いの現場である。
G7主催を控えた一刻(一国?!)の首相として、他国代表が訪れているウクライナに訪問できないのは格好がつかないと思ったのであろうが、広島が表現すべきは和平であって、戦に油を注ぐことではないだろう。
どこかの野党がそのことを咎めつつもその視点はただの政権批判で、同時に首相の「電撃?!」ウクライナ訪問を安全面から非難しているが、自らの戦争終結案をもたないならば、何も語る資格はない。自分の党に閉じこもって鎖国体制を維持して党内天下泰平を願っていればいい。
広島でG7を開催するというのなら、平和への志向を密かに内に秘めて、和平のための努力をするべきだろう。他の6カ国と違って、日本はNATO加盟国ではないのだから、あくまでも独自の視点を展開できるのであり、ウクライナとロシアの仲介という立場を表明してもいいはずだ。中国がロシアに寄り添いつつ仲介の労を取るパフォーマンスをしているが、その対偶として、日本がウクライナに寄り添いつつ仲介をとるデモンストレーションをすれば、その対角線上に日中友好という思いもかけない展開が生まれるかもしれない。
外交とは「外国交際」のことであり、福沢諭吉の翻訳語の応用である。Societyという英語を交際と訳したのが福澤で、この交際という日常語を抽象概念としての「交際」にしていった先に「外国交際」が生まれた。個人と個人の交際は「人間交際」であるが、国と国の交際は「外国交際」になる。(詳細は柳父章著、翻訳語の論理)
重要なのは人と人との交際が国と国との交際になるという帰納法である。International Society(国際社会)という抽象概念から演繹的に導き出された外交と本来の外国交際は違うということ。
岸田がウクライナ訪問したのは後者の論理であった。米国のバイデン大統領も電撃訪問し国際社会という抽象概念から日本の首相の外交を演繹し、「自らも擬似電撃訪問を!」となった。しかし、それでは内容が伴わない。それを穴埋めするために贈ったのが「しゃもじ」。岸田の日常的な感覚から帰納法で到達できる「交際」となった。
しかしこれでは本当の「外国交際」にはなり得ない。もし日々の政治活動が具体的な人との交際で綴られてくれば、その先に生まれる国と国との交際は現実的なものになるだろう。
広島は史上初の被爆都市であり、そこから生まれる平和への希求は非常に実感的なものである。その都市を故郷とする岸田はそれを自省すれば、戦争勝利を応援する「しゃもじ」以外のものが現れてくるのではないか?それは日本刀であり、鞘に収まっている刀だ。抜けば切れるが、抜かずに人を静める思いだ。
コロナ禍でオリンピック開催を成し遂げたのは、四年に一度、武器を置いてオリンポスの神に身体と精神の全てを捧げる故事を再現したことになる。その誇りと憲法第9条の魂を以って、ロシアを説得し、ウクライナに寄り添えるのは日本においてはないと私は思うのだ。
北京もコロナ禍でオリンピック開催を成し遂げた同志のはずで、その視点から言えば、習近平のプーチンとの会談は、五輪休戦を破ったプーチンに落とし前をつけさせるための第一歩だったとも見える。実際、プーチンは同大会の開会式に隣席し、五輪閉会の4日後にウクライナ侵攻を始めた。その時、習は絶対に五輪開催中は戦争を起こさぬように言い含めたはずだ。一方、プーチンはそれを守りつつ、パラリンピックが開会するまでにキーウを落とせると思ってこの戦争を始めたのだ。その結果が今の状況である。
日本は今こそ中国との外国交際を始めるべきであろう。それがオリンピズムからの戦争終結と戦争回避の戦略になりうる。
さもないと、岸田のウクライナ訪問は飛んで火に入った春の虫で終わる。
(敬称略)
2023年3月26日
明日香 羊
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編集好奇
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習近平とプーチンはもしロシアがスポーツ界から追放されるならば、五輪とは別の国際総合大会を主催するとプロパガンダを発した。これは一見、五輪の分裂に見えるが、これによってロシア選手救済が仕掛けられていると私は思う。仕掛け人は誰か?それは次号で紐解こう。
春日良一