長編小説④:容疑者は幻のごとく
アゴを手でさする。
人差し指の柔らかい皮膚にくいこむような硬いヒゲのそりのこしがあった。
ジョリッとした音が聴こえた。
日付をまたいでから寝床についた。
寝床につき、レム睡眠にはいるまえに電話の呼び出し音におこされた。
例の凶器で殺害されたとおもわれるガイシャが発見されたとの連絡あり。
寝床からはいだし、顔を冷たい水であらい、たるんだ目元をひきしめる。
歯ブラシをくわえながら、オモチャのような電動シェーバーでヒゲをそった。
アゴをさすると、そりのこしがあるように感じられた。
しっかりと深剃りできる電動シェーバーを買うときめた。
お値段は高くてもよい、しっかりとヒゲをそりあげてくれる電動シェーバーを買おう。
ヒゲをさすりながら、昨日のことを思いだす。
凶器を作った男との会話を思い出していた。
男の手の爪は、オイルがしみこんでおり、漂白をあきらめていた。
指の関節は、シャンパンの栓のようにふくらんでいる。
ぼつぼつと、銅板に穴を掘るように話す男だった。
「凶器は20年まえに、たしかにこの工場で造ったものです」
「メンテナンスはしていません」
「のせられている乗り物を一度だけとりかえました」
凶器の可動域は、どれほどなのかたずねた。
人の頭を砕くほどに激しく動くのかたずねた。
男は質問の意味がわからなかったようだ。
凶器で殺されたガイシャの死体の写真ををみせずに、状況だけをつたえた。
「おそらく凶器の先端を何度もぶつけたのでしょう」
「地面につくほどに凶器は稼働しません」
「コイン1枚の稼働時間で人の頭をくだけるほど凶器は動きません」
想像どおりの返事がかえってきた。
男が嘘をついている可能性はひくいだろう。
朝の9時から夕方の18時までしっかりと働き、1杯のビールと1合の日本酒、もしくは焼酎があれば満足する。
高度成長期の土台になったであろう尊敬できる男だ。
そんな男が、嘘をつく必要はない。そして、この男が凶行におよぶとは考えられなかった。
警察も凶器を検証した。
凶器の可動域はせまく、1コインでは人の頭を砕けないと結論づけていた。
ガイシャを殺した凶器とおもわれるコイン箱には、4枚のコインしかはいっていなかった。
コイン4枚分の動作量でも人の頭を砕けないと報告された。
あらたな殺害現場のまわりに貼られた黄色いラインの外側には、二重三重の人垣ができている。
深夜でもなく早朝でもないこの時間の商店街にこれだけの人が集まるのはめずらしい。
人垣をかきわけ、黄色いラインの内側にたつ警官に手帳をみせる。
警官が敬礼したのち、ボクサーのセコンドのように黄色いラインをあげてくれた。
リングにあがるボクサーとよぶには、動物園の百獣の王のようにけだるい動作で黄色いラインをくぐりぬけた。
現場はブルーシートでかこわれていた。
ブルーシートの端をもちめくる。
そして、ブルーシートのなかにはいった。
まえのガイシャとおなじでガイシャの顔は消失している。
けれども、地面にひろがっている血がすくないように見えた。
凶器で殺されたとしたら、まえのガイシャのようにあたり一面に血が飛びちっているはずだ。
しかし、こんかいのガイシャの出血量はすくない。
どこか別の場所で殺されたあとに、凶器で頭を砕かれたのかもしれない。
4mほどの青い正方形のなかで、おおくの人間が行動していた。
写真をとるもの。小さい旗をさすもの。頭部の一部を透明な袋にいれるもの。
あたりを見わたすと、とくに血の色が濃いポイントがあった。
そのポイントには、すでに小さい黄色い旗がたてられていた。
眠気をひとかけらも感じさせないジュンコくんがやってきた。
「被害者の身元は蛙石武夫、勤め先はこの街の広告代理店。財布にはカードと現金4万円がのこっており、5万円相当の腕時計もはめられたままでした」
「ものとりの線は消えたものと思われます」
「うん、そうだろうね」
タケノコのように1㎜ほど飛びでたヒゲをこする。
目のまえの光景にうんざりさせられたのか、はたまた、睡眠不足の影響か頭の回転がおそい。
どこから捜査をはじめるべきか。考えがまとまらない。
ブルーシートをめくり、酸っぱい匂いをさせたツヨシがはいってきた。
また、吐いてきたようだ。
彼の白かったであろうスーツは忙しさから洗濯もせず、着替えもせず、胃液のように黄ばみ、そして、酸っぱい匂いを漂わせていた。
ジュンコくんのスーツは、しっかりとノリがきいており袖の先まで清潔に白くととのっていた。
ガイシャの身内と会社に連絡。
そして、ガイシャの評判、また、恨んでいたものがいないか聞きこむように二人に伝えた。
商店街の自動販売機でコーヒーを買い、タバコに火をつけた。
微糖の温かいコーヒーは、からっぽの胃の肌に痛くしみいった。
いがいがしたタバコの煙も胃に充満した。
今日も眠れないほど忙しくなるだろう。
ガイシャの身元がわかったのだ、奇妙で奇天烈な事件の解決は存外はやいかもしれない。
青く光る商店街の灯りにあつまる色とりどりの蛾と、世間から忌みきらわれる副流煙をながめながらそう考えた。
その考えは、見事に裏切られた。
ガイシャの評判はわかった。
男性社員からは好かれていたようだ。
飲み会がすこしわずらわしい、それくらいの不評しか聞かれなかった。
女性社員からの評判は正反対だった。
肩や腰、さらにはお尻もさわる。
セクハラされ退職した女性もいる。
セクハラを会社にうったえた女性もいた。
ごみ屑のようにうったえをガイシャはにぎりつぶした、そして、女性を窓際においやったそうだ。
ガイシャの評判を報告してくれるジュンコくんの眉毛が、矢をはなつ直前の弓の弦のようにはりつめている。
怒気をはらんだ声はおおきくなり、さらには目の表面張力により涙をせきとめている。
ジュンコくんは、白いコピー用紙の束を握っていた。
罪のない白いコピー用紙が、クシャッと無実の悲鳴をあげていた。
ガイシャが殺害された日の足取りも判明した。
女性と行動していたことがわかった。
居酒屋にはいり、でていったこともわかった。
けれども、女性の容姿、年齢は、しっかりと判明しなかった。
目撃者たちに女性についての質問をすると、ぼんやりとした答えがかえってくる。
そして、その答えは、まったくのバラバラだった。
年齢は20代から50代。
髪は長かったり、短かったり、茶色だったり、赤色だったり、金髪だったり。
身長も体重もてんでばらばらだった。
目撃者が、嘘をついているようには見えなかった。
嘘をつく理由もないように思う。
姿形をかえられる妖怪が犯人なのだろうか。
なんて、しょうもないことを考えるのは、睡眠時間がたらず、気がめいる仕事がのこっているからだ。
ガイシャの家のチャイムをならした。ゴールデンレトリバーがほえた。
ゴールデンレトリバーをしかりつけている女性に、ガイシャの死をつたえる。
女性は、清潔に整頓された玄関にひざをつき、顔を手でおおい泣きだした。
女性の声にきづき、腰のまがった老婆と高校生か中学生ぐらいのふたりの女の子が家のなかから飛びだしてきた。
老婆と女の子にもおなじことを伝える。
ガイシャは、家族の女性にはヘビやカエル、クモのように嫌われていなかった。
泣きじゃくる女性たちの背後に、小さい男の子がひとりたたずんでいた。
口に左手の親指をつっこんでいる。
眉毛はうすい。 けれども、黒目はおおきく、しっかりと見開かれていた。
家の扉がしっかりと閉まるまで、男の子の目は、ずっとそりのこしたヒゲを凝視していた。
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