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人は想像を超えた以上の景色を見ることはできない

いきなり残酷な話ではあるのですが、語弊を恐れずに言えば、例えば景色を見て素晴らしいと感じるのは、元々その景色をみて素晴らしいと感じる程度に情報を処理できる能力があるから、という部分が少なからずあります。

「情報を処理できる能力」には、視力だけではなくその媒体を見てその外側を想像する能力や、逆にその媒体から何かにフォーカスする能力、そしてその媒体の素晴らしさに気づく能力、その素晴らしさを感情豊かに体全体で受け止める能力、その媒体がいかに素晴らしいかを表現する能力を含みます。当然視覚的な部分だけの話ではないですよ。

これらって結局は「想像力」という言葉ひとつで表現されることが多いわけですが、裏をかえすと「想像力の欠如」は情報を処理する上で、つまりは実り多い人生を送る上でおおきな足かせとなるのではないかと思うわけです。

これらって、結局我々は何をやってるかっていうと、様々な形態で入ってくるインプットをいかに腹落ちさせて自分の糧というか、体の一部にしていく過程でさまざまなアウトプットを行い、世界を捉えていくということをやっているに過ぎなくて、それに意味があるかというと、意味を見いだす人もいれば、唯漫然とところてんのようにスルンと抜け落ちる人もいて、最終的には悟り的なことになるのかもしれないんだけど、そういった経験は最終的には自分の無意識下に置かれることでいろんな能力が向上していくんだろうなと思うわけです。

だから、過去に何かを経験したことって必ず自分の内側にフィードバックされていて、それが結局自分の新しい「価値観」というフィルターが形成されることになるわけですが、問題なのはその価値観がとても「無意識的」であることだったりします。

人間、なんらかの価値観を持たなければものごとを捉えることができないわけで、ただその価値観って本質を多分にゆがめる性質を持つことがあるわけです。自分の価値観がゆがんでいるのか、それとも自分以外の価値観がゆがんでいるのか、それらを認識して本質に近づけていく作業というのが人生なのかなと、最近では思います。

何かの価値観が本質的でない場合、それに気づく方法や本質に近づける方法ってのはいろいろあって、例えば、過去の経験について深く考えるとか、だれかの価値観をそのアウトプットから想像するとか、実際になにかの価値観に触れてみて互いにアウトプットしあうとか、そういうのを経て本質に近づいていくのではないかなと思うわけで、逆にそれらの想像力を上にも下にも超えた範囲でその価値観に触れたとしてもその価値観の存在にすら気づけないということが往々にしてあって、それらの解離性いかんによっていろいろとわかったりわからなかったりするのかなぁと思ったりします。

願わくば、自分の持てる全ての能力をもってインプットとアウトプットを最大化し、本質を以て社会全体を豊かにしていきたいものです。

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おるのん
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