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AI技術は庶民の福音か、はたまた悪魔の契約か。

今回のトップ絵もまた、DALL-Eからの生成です。先日、私のXのTLにAI生成はタコとか、クソとか、それを使うやつはクズ、みたいな話をする人たちというのが一定数、割と身近にいたのかということがあり、それは本当にそうなのか、というのを歴史的なながれから考えてみようかと思います。

創作の原点

いわゆる「創作」というものに対して、それはもともと何だったんだということになると、原始時代の壁画とか土器とか口伝とかになろうかと思います。それはある種、宗教的というか儀式的というか、そういう創作者の心の内面などを外面に表現し、それを観たり聴いたりした者に伝達することを目的にしている生成物、ということになろうかと思います。

それはおそらく伝達することが主目的で、みんなで集まってそれを利用するという行為が儀式とか祭事とかにつながっていったんじゃないかなと想像するわけで、その流れは本当かどうかはわかりませんが、なにかしらのつながりはある気がします。

バロック期ルネサンス期は何だったのか

音楽にしろ、絵画にしろ彫刻にしろ、人類のこれらの手法について、大きく飛躍した時期というのが何度かあります。そのきっかけってのはとても単純だと思ってて、それは単純に何らかの要因により需要が伸びたから、なんだよなぁと思ったりします。

大資本を投下するパトロンの出現、画商の登場と増加、それに伴うパトロンの増加、といった形で、創作に対する需要が伸び、数多くの作品が作られるようになった、というのが私の見解です。

技術の進歩による栄枯盛衰

さてそうなってくると、作品の制作という供給が限りなく頭打ちになってきます。そして、それを解決するためのコピー技術というものが発達してくることになります。そして、その技術がそれまでの需要を一気に解決するような歴史的転換点となる技術だった場合、それまで仕事として対価をもらえる技術だったものがそれに置き換わる、ということが出てきます。

活版印刷の登場で写本師が居なくなり、蓄音機の登場で多くの劇場が廃れ、写真の登場で肖像画の需要はなくなり、その後、映画、ラジオ、テレビ、などと続いていきます。

その結果、これまでコピーを前提に仕事してきた製作者の多くが路頭に迷うわけになりますが、とはいえそれは制作サイドで求められる技術が変化していったという流れの中で起きたことではあります。そして、消えた需要の代わりにのびた需要というのが、「オリジナリティ」、独自性というやつで、著作権や肖像権、特許権といったものがこれらオリジナリティを社会的に保護する目的で制定されることになりました。そして現在に至ります。

コピー撲滅、オリジナル至上主義的な価値観というのはこの頃から醸成されてきたもので、そして、この著作権、特許権というものが近代の経済をけん引してきたということはまず間違いがない事実です。

コンピューター技術とインターネットの普及とAI生成

その中で登場したコンピューターは、その構造上、コピーを前提にした技術と言えます。ロケットの弾道計算と言えば聞こえはいいですが、世界の物理法則の一部を切り取ってシミュレーションを行った、と言えばなんだか穏やかに思えない人も出てくるのではないでしょうか。

そうでなくてもコンピューターはあるレジスタから別のレジスタにコピーを行うことをとんでもない速さで行うことで、計算を可能にしているわけですから、前提としてコピーが根を張ってるといっても差し支えないわけです。

そしてそれはインターネットの仕組み自体もコンピューター同士を連結してコピーで動くわけで、じゃあAI生成はどうなのよ、ってなるとそれはコピー技術の応用ってのは当然な話なわけです。

それをイラストの民主化とか私物化とかどうこう言われるまでもなくそういう前提なわけですが、こういうことを言う人たちが頭が悪いって言われるのはそういうことだったりします。

法的にはどうなんだろうか

このセクションは法律ド素人の庶民的見解ということになりますが、コンピューターの登場からインターネットの普及についての法的な規制というのは「私的利用の範囲」を厳格に定めることで対応してきた経緯があります。

その範囲を定めるにあたり専門家と政治家の間で一悶着あったりしましたが、それは権力者の中ではうまくいってると考えているのだろうと思われます。実際、庶民的肌感覚としてもそれはうまくいっているように思えます。

私はAIの生成についてもこの私的利用の範囲を決めることで対応可能だと思っています。どの範囲が適正かという部分については大いに議論の余地がありますが、個人的には「商用かどうかを問わず公的に広く利用されうるAIへの学習に著作権が及ぶ他者の創作物を使うことは私的利用範囲外とする」というあたりが良いんじゃないかと思っていたりします。

自分のAI技術へのスタンス

これまでのコンピューター技術に対するスタンスと変わることはありません。AI生成技術による社会的影響は不可避のものです。そして、それを否応なく排除することは、P2P技術を排し、組み込み技術を排し、OS技術を排し等行った愚行と同じ道、同じ思想だと考えています。

様々な技術を活用することにスキルが必要なように、AI生成プロンプトにもスキルというものが存在します。それはグーグル検索にもスキルが存在するのと同様に、自然言語を使うというだけでやってることはグーグル検索の延長上のものなので、それ相応のスキルが存在するわけです。

AI生成技術による社会的影響は、残酷な話ですが、あらゆる低スキルの技術者からAIに置き換わっていくだろうと思います。そして最終的にはあらゆる技術者がAI生成を活用できるかどうかで仕事が続くかどうか決まる、ということになり、それは技術者やその知識が不要になるのではなく、AI生成により整合性を確認できない、生成結果を修正できないという人から仕事がなくなっていくということです。

その中にあって、「オリジナリティを磨くこと」「AI生成プロンプトを活用できるようになること」「レタッチや編曲をはじめとしたAI生成結果を修正できるようになること」というのは、今後ますます必要になってくるだろうと思っています。

まぁ、一生勉強ですね。ホント。

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おるのん
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