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しらすチーズトーストとギリギリに出かける男

朝7:21分発の電車に間に合うように娘は11分に家を出る。夫は15分、私は7時ちょうどに出る。

勿論みんな同じ家から出発するのだが、時間感覚が家族でもこうも違うのだから、世間では尚更だろう。

私は夫が15分に出るのを、自分が休みの日はじりじりしながら横目で気にしている。なぜだろう。なぜこの人はこんなにもギリギリに出ることを決め込むのか。。。

何かのゲームなのか?

1分でも長く家に居たいほど私との別れを惜しんでいるのか?

疑問の渦に巻き込まれてく。

私はというと、とにかく不安症なので「時間に間に合わない」=「誰かに迷惑をかける」=「ダメな事」という思考から、かなりの余裕をもって時間を設定する。

「慌てる」「焦る」ことほど苦痛なことはない。

ゆっくりと歩きながらその道中の公園で鳥の鳴き声や森の香りを堪能して、駅についてなお余裕がある。

娘はきっと、特に公園を堪能はしないながらも普通に歩いて駅について少し余裕がある程度の時間設定だ。

夫はというと、何かに挑戦するかのようにギリギリまで家で普通に会話をして、特に慌てるでもなくドアを出るがきっとそのあとは競歩並みのスピードでオケツをプリプリさせながら一秒の無駄もなく駅に向かい、ホームについたところに電車が滑り込んでくる時間設定なのだ。

恐らく彼には、電車を逃さない絶対的な自信があるのだ。

しかし、何のために?

何のために、あんなにギリギリに出ていくのか?

再び疑問の渦に巻き込まれそうになった時に私は自分も高校生の時はギリギリスターターだったことを思い出した。

でもあの頃は成長期でとにかく眠くて、一分でも長く寝て居たいという強い願望があった。それゆえギリギリまで寝てしまった結果仕方なく家をギリギリにでるという選択肢しか残されていなかったにすぎない。

今の夫は、時間的にかなり余裕があるにもかかわらず、出るのがギリギリだから、理解に苦しむのだ。

私はかつて、今は亡き父に「時間は命だ。時間に遅れることは相手の命を盗むことになる。」と教えられた。

それ以来、時間に遅れた記憶はない。

だから、待ち合わせなども出来る限り余裕をもっていく。それは、相手のためというよりも、いつしか自分の心地よさを優先した結果になっていた。

時間に余裕があれば、ココロにも余裕が生まれる。だからこそ、その移動の道中すら見て聞いて感じて「生きた時間」に出来る。

きっと、夫にとって移動の時間は「死んだ時間」なのだろう。

ただ家から駅まで体を運ぶ移動の時間に過ぎない。だったらその時間を必要最低限にして「生きた時間」を少しでも長くしたい。そういった心理が働いているのかもしれない。

結局のところ、余裕をもって出ている私も、ギリギリに出る夫も、程よく出る娘も、今まで生きてきた中で自分なりの「時間感覚」というものが出来上がって、「生きた時間」を長く過ごそうとする目的は一緒だったのだ。

そういえば、朝ご飯に夫と娘に作った「しらすとチーズのトースト」も、私が朝の作る時間を少しでも短くするという目的と、家族が食べる時間を短くするという目的に叶ったものだった。

朝は出来るだけ短時間で、食べ手にも負担をかけずに、でも、カルシウムやたんぱく質はとらせたいという母親の思いがある。

それは、もしかしたら「生きた時間」を増やしたいという、人間の本能にも近い欲求と共通しているのかもしれない。

最後に良質な胡麻油とヒマラヤ岩塩をさっと垂らして完成する味わいは、時間も手間も省いた中でぎゅっと濃縮された味わい深さなのだ。

時間も命なら、食も命だ。

不思議な共通点を見つけつつ、ギリギリで出ていく夫のプリケツを見送った。


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バニラエッセンス薫
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