インドネシア留学記③留学生活が始まった
両親の説得やビザなどいろいろを乗り越えて、やっとインドネシアでの生活が始まりました。
どこで勉強したか
まずは一番大事な留学先。
最初に旅行した町に近い、バンドゥンのパジャジャラン大学の外国人向け語学コースにしました。
公式HPはこちら。
https://www.unpad.ac.id/
分かりやすくまとまっているのはこちら。
お世話になったインドネシア語の先生が、毎年、学生さんたちを連れて短期留学をしているのもバンドゥンということで、先生のホームグラウンドであることも大きかったです。
バンドゥンは高地に位置していて、熱帯気候のインドネシアの中では涼しい気候だったこともあります。
当時、同じクラスにいたの外国人の主な国籍はこちら。
・アメリカ人
・スウェーデン人
・デンマーク人
・フランス人
・フィリピン人
・韓国人
・日本人
・・もっとバラエティに富んでた気がするけど、思い出せない。
日本人が一番多かった!
これは今でも謎なのですが、他の国が1~2名なのに対して、日本人は数名。
明らかに多い。
北欧からの留学生も多かった。
オランダが統治していた歴史とも関係があるかと思います。
先生はインドネシア人。
既にインドネシア語堪能な学生も多かったですが、ビザのために在籍している人もいるようでした。
どこに住むか
最初はホームステイで始めました。
ただ、ホストファミリーと下宿代のひともんちゃくがあり、そこを出て下宿屋を探すことに。
ちょうど帰国する日本人学生の住んでいた部屋が空くとのことで、そこに入居することにしました。
家賃は、約20万ルピア。
日本円で1万円くらい。
私以外は全員インドネシア人の大学生(女子)が住んでいて、みなさん、ちょっといいとこのお嬢さんでした(大金持ちではない)。
部屋は、8畳くらいだったか・・。
トイレだけ部屋の中にありました。
シャワー、台所、食堂、リビング、固定電話は共用のものがあり。
お手伝いさんがひとり常駐で住んでいました。
お手伝いさん?!
と、ビックリされることが多かったのですが、当時のインドネシアではお手伝いさんはかなりの割合で一般家庭にいました。
ちょっとした一般企業に勤めている共働き夫婦の家とか。
お手伝いさんの給料が安いことと、貴重な働き先だったのだと思います。
お手伝いさんは、私よりも若い女性。
主に、手洗いのお洗濯と掃除をしてくれていました。
そう、洗濯機がなかったのです。
ジーンズは洗うのが大変・・とこぼしていることがありました。
同じ年ごろの彼女がお手伝いさんとして働いていて、ほかの下宿人や私は学生。
お手伝いさんになじみがないことがあり、いつも複雑な気持ちで過ごしていました。
お手伝いさんだからといって、身分が低い扱いと言うことはなかったように思います。
話し方も対等。
留学生の私がいろいろ分かっていないので、面白がっていろいろ教えてくれました。
今でもお手伝いさんはいるのかなあ。
毎日の食事
下宿では、白いご飯だけをお手伝いさんが炊いてくれていました。
お手伝いさんによっては、おかずも作ってくれたり、そこは経験によるみたいでした。
それに、私はケータリングのおかずを頼んでいました。
毎日1食分が届きます。
インドネシアの普通のおかずが食べられて、満足でした。
他の下宿人たちもけっこうな割合で頼んでいたような。
インスタントラーメンなど、簡単なものは自分で作って食べていました。
課外活動
学校だけでは暇なので、課外活動にも参加していました。
ガムラン楽団
インドネシアの伝統的な金管楽器の楽団をガムランと言います。
イギリス人が団長で、インドネシア人と外国人混成の楽団があり、そこに入れてもらっていました。
ガムランはこんな感じのものです。
※わかりやすいサイトでご紹介させていただきます。
インドネシア語もままならない私なので、一番簡単なgongという大きな楽器を担当させてもらいました。
簡単だけど、大きくて音が大きいので、間違えると目立つ・・!
大太鼓みたいなものでした。
金管楽器のハーモニーに、インドネシア語の歌が相まって、頭がどこかに連れていかれるような、そんな音楽でした。
音というのはメロディーだけでなく、振動でも聴くものなんだと、知りました。
外国人が混じっているのが面白かったのか、テレビ出演したこともありました。
ほかにも、バティックというろうけつ染を習いに行ったり。
伝統芸能がいろいろ面白かったです。