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有意差が大きいと発達障害?
知能検査を受けたことのある大人というのは、
あまり多くないのだと思う。
私は知能検査、いわゆるIQテストを受けたことがあり(ここで経緯は省く)
だいたい全体で120くらいの値だった。
発達障害当事者による対談記事を読み、ふと、自分自身の当事者性について、そしてグレーゾーンについて考えたことを書き留めてみる。
知能検査の結果、
個別の項目では言語理解の数値が最も大きかった。
項目ごとの数値の差のことを
ディスクレパンシーというが、
その数値ごとの有意差、ディスクレパンシーが15以上あると、人生生きづらい、と、医師の説明や検査後に受取る報告書、ネット上の記事などで、一般的に言われている。
私の有意差は35。おお、生きづらい。(ちなみに息子の有意差は56。こんなことあるの?)(ここでの詳細は省く)
「有意差が大きいと、発達障害の可能性あり!」
これ、少し前にはどこにでも見かける一説だったが、
最近は見直す向きもある。
つまり、発達障害の、「障害」を意味する部分。
disorderという英語の訳だが、日常生活に支障があるかどうか、という点が大切なのだ。
生きづらさは、どの程度から支障となり、発達障害という診断を受けるに文字通り値するのだろうか。
さて、ここで思うことは、日常生活に支障はない、というのは、一体誰が判定できるのだろう、ということである。
例)部屋は片付いていないし、ペットもいてめちゃくちゃだけど、ごきげんに暮らしている。
これは、客観的に見て、日常生活に、支障はない、のか??
例)日々の学習に加えて資格試験の勉強、年間を通してのプロジェクトが3つ、バッタバタで用事をいつもうっかり忘れがちだけどなんとか死なずに生きているよ!
これも、ぎりぎり、OK?
例)逆に、「支障あり」というケースは、たとえば、忘れ物がひどすぎて、通学や仕事がままならない。気が散りすぎて、逆に過集中などで、どうしても自立できず、生活には他者やシステムや投薬のサポートが必要。
といったケースだろうか。
その差はグラデーションのようではないかとも思える。
日常生活がどのようなもので、どうであると「支障がある」というのだろう。
もしもその視点にそもそもバグがあると、支障があると本人が認識できないという可能性を、
ふと考えてしまった。
私の子供時代の日常には、既に支障があったと、振り返って思うからだ。
片付けや判断が苦手な母のことを思い出すと、半世紀前にはそんな概念や言葉は存在しなかっただろうが、彼女自身が発達障害と診断を受けたかもしれない可能性は、容易に想像ができる。(ちなみに彼女は子育てを終えて以降、芸術的な才能を爆発させ謳歌している)
その彼女の運営する家庭で、子供として育った私は、自分がどんな困難な状況を抱えて暮らしているかなど、客観的に知りようがなかった。そしてそのまま大人になった。
今の私の生活を見ると、ドラマや映画で描かれるような理想のお宅とは程遠い状況であることは理解できる。
だが、混乱した状況で、順序立てて何かを決めることが難しく、
判断を先送りにする癖(なんと!遺伝だろうか)があることを認識している。部屋も散らかっている。変なところが潔癖症で、水回りはピカピカだ。
だからといって、物を失くしてしまうわけではない、という点がやっかいなのだ。
何かを探そうと思うと記憶をほぼ辿ることができて、すぐに、または数分で、だいたい探しものは見つけることができる。
これは、記憶力が自分の整頓の苦手さをサポートしているからぎりぎり成立しているのであるが、皮肉なことに、うまく整頓されていないから、苦手そうだからと、他者が整理整頓に加わってしまうと、その後自分では探し物は見つけられなくなってしまうのだ。不思議だし皮肉である。
このぎりぎりな感じに成立した生活で、私には居心地の悪さや罪悪感、自己否定などの困難がある。でも、健康に生きてはいる。
それは、障害がある、支障があるとは言えないか。
しかし、ひとたび私に大きい仕事案件が入ったりすると、家庭において、それはそれは悲惨な状況が待っている。
全ての整頓と家事が停滞し(背景にあるのは、家事を担うのは主に女性であるという日常と慣習から)、家は散らかり放題、一気に荒んでくる。仕事に全集中し、無事に終えられるまで、その他一切については思考がまとまらなくなるためだ。
これは、障害がある、支障があると言えるかもしれない。
しかし、家事を女性がやるべきで、部屋が散らかった場合は、家庭内の女性にその責任がある、という点を見直してみたらどうだろう。
大きな仕事案件が舞い込んだ時点で、家事を第三者にサポート依頼、外注する。(または、普段から家族全員が協力して負担をし、行う!!)
こうすると、散らかって散らかって、家が荒んで困る。という、生活においての支障はなくなるのだ。ただし、外注する場合の金銭的負担が可能な経済状況においてのみ、これは選択肢として成立する。
何をもってして、生活の支障、だろうか。
そうすると、不思議だけど
お金で解決できるうちは、支障にならない(生活ができているので、診断を受けるまでに至らない)、ということがわかる。
貧困と、生活においての支障かつ金銭的な解決ができない場合→困難さからの、発達障害の診断、までが、
点と線で結ばれているのだろうか。皮肉である。
発達障害、なのだろうか?
生きづらさとは、
私の生きづらさとは。
それは相対化できるものなのだろうか。出会ったことのない想像上の他者と比較して、
主体的に判断して、生きづらい、日常に支障があるのだ、と言えるのだろうか。
そうすると、自己申請を拠り所にするほかない。
また、その改善をどの程度できたかというのも、誰が判断することなのだろうか。また自己申請、困り感の軽減という主観であろうか。
まったく他人事ではない、発達障害という領域。
生活ができている私はおそらくグレーゾーンというところにいる人間なのだろう。
発達障害とディスクレパンシーの関係性、そして困り感という主観の相対化について考えてみた。
生きづらさをじっくりと考えてみることは、辿ってみると、自分自身の考え方や行動の特徴だけでなく、家族との暮らし方、ひいては生きる姿勢みたいなところまで、繋がっているものだなと思った。
(仮の文章のまま公開。後日、加筆訂正する場合があります。)
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