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私はメガネをかけた子どもでした。

少し前に、岸田首相を「OOメガネ」と揶揄する言葉がSNSにあふれたことがあった。品がないなと思いながら、それって、メガネをかけている子どもを周りの子どもたちが笑い者にする(今でも子どもの世界ではあるのかな)昭和の時代の光景が今の時代にまで受け継がれていることに唖然とするというか、絶望に近いものを感じた。

私は、小学生の頃から視力が落ち始めてメガネをかける子どもでした。私の場合は、何かの行事で親戚が祖父母の家に集まった時、むしろ祖母から名前ではなく「そこのメガネ」と呼ばれたことを今でも覚えていて、もうその年で大人に対して心を閉じる術を身につけてしまっていたので、聞き流すとかそういうカッコいい態度ではなく、そう呼ばれて何かを感じてしまいそうな自分をスルーしていた。

ついこの間、お店にご家族連れのお客様がいらした。2人姉妹で、お姉ちゃんが5,6歳かな、妹もいて、ふたりでほぼお揃いの服を着ていた。「おそろいだね」と言うと、お姉ちゃんの方が「でも、違うところもあるよ。私はメガネをかけるの」と言う。度の強そうなレンズのメガネをお姉ちゃんはかけていた。彼女はメガネが大好きみたいで、ちょっと自慢気で可愛いなと思った。でも、同時に、彼女は、学校で(幼稚園?)大丈夫かな…と、咄嗟に思い、その素直な気持ちが挫かれることがないことを願った。

とか言いながら、私の中に、メガネをかけていることで子ども心に受けた嫌な思いは、どんなに表面的にスルーしていたとしても、やっぱりどこかに残っているんだなと思った。岸田首相のことも、この女の子のことも、私の中でくすぶっていた小さなトラウマを深いところからボコッと泡ぶくのように水面に押し上げてきた。

いい歳をした大人たちが、要職に就く公人を揶揄するために使った言葉は、それが人を見下す、馬鹿にする言葉だと分かって使ったわけだから、もしくは百歩譲ったとしても、自分の言葉が無意識に人を傷つけていること、そういう刷り込みがなされていることに気づけないことに心底腹が立つ。見た目や身体を揶揄するのは本当に品性の欠片もない。

ほんの少しだけ自分を顧みることって、人は出来ないのかな。
今よりほんの少しの優しさを持つだけで世界は変わるし、何より一番癒されるのは自分なのに。


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