大濱普美子『猫の木のある庭』感想

 大濱普美子『猫の木のある庭』を読んだ。
 短編それぞれは、場所も登場人物も時代も異なる。しかし、編を重ねるにつれ、漂泊する人間と留まる人間に対する解釈が、ゆるやかに発展していくのが分かる。
 大濱は、この短編集を通じて、漂泊の自由/不安と固着の安心/醜さ、四者それぞれの対比と、四者を掛け合わせて豊かな創造性が生まれることを示してくれた。

 漂泊は、何者か、もしくは自身の意思によって、一地点に安住できなくなっていることだ。あちらこちらと土地を渡り、自由ではあるが、その日暮らしの不安がまとわりつく。
 一方、固着は、一地点に安住して根を張ってしまうことだ。家にどっかり腰を据えるのは安心する。しかし、その気安さであられもない姿をとってしまうこともまた確かだ。

 表題作「猫の木のある庭」は、自宅があり、安住しているはずなのに、漂泊しているかのような不安が色濃い。誰かに安住の地を脅かされているという恐怖が常にある。本作は、短編集全体の基礎となる漂泊の不安を描いている。

 続く「フラオ・ローゼンバウムの靴」では、その漂泊の不安と同時に、安住した家と靴の中で、自分の身体が食欲にとらえられ肥え太っていく。自分は肥満していく自身に不快を感じない。同じ格好で同じ店に通い、地元の人間と今までにない関係を築いて満足している。その土地、その暮らしに固着することによる安心感が描かれている。醜さはほとんど描かれず、肥満さえ愛らしく表現されている。

 「盂蘭盆会」は、もはや家に腰を据えて安心しきった人間の無遠慮さや身勝手さといった醜さがあからさまに描かれる。他に拠り所のない寝たきりの病人が持つ卑屈な愛嬌と、看病しながら鬱憤晴らしに虐待めいた遊びをする主人公は、どちらも家の中に留まっていて、それゆえに感情が滞って人間性が醜く崩壊していく様子が分かる。
 漂泊の不安とは正反対の物語のように見えるが、他の家族は、むしろ漂泊する自分自身の不安定さに押しつぶされそうになっているという対比も鮮やかだ。

 「浴室稀譚」は、人が安住を破り捨てて漂泊を選ぶ瞬間の、その時限りの自由の喜びと、残された人間が夢の中で感じる穏やかな漂泊を対比する。
 ちょっとしたルール違反で感じられる自由の喜びを追い求めた末に、その場から逃げ出すしかない状況に追い込まれ、何もかもかなぐり捨てて飛び出すとき、それさえも漂泊の喜びなんだろうか。私には、あまりに大きな逸脱は、喜びを伴わないように思えた。それよりも、安住しながらにして感じる、夢の中のようなささやかな逸脱が、漂泊の喜びだろう。

 「水面」は、漂泊の先で知った他者の苦い秘密を通じて、自分が安住を破り漂泊を選ぶきっかけになった出来事と向き合う。「浴室稀譚」で漂泊のまどろみを見せていた夢が、本作では後ろ暗い秘密と向き合うことを促し、最後には水中の安住(固着)を破って水面という前方向へ進んでいく(漂泊)ことに快さを感じさせている。夢はいつも、漂泊の喜びを感じさせてくれるのかもしれない。

 そして「たけこのぞう」は、一地点に固着した人間の醜さは表層に過ぎないこと、漂泊しながら生きるには強い精神が必要であることを、1人の人間の内面に描き尽くす。
 身体は家を出なくとも、心は常に漂泊している。言動は無遠慮で性根まで醜いように見えても、創り出すものはとてつもなく美しい。「たけこのぞう」では、もはや漂泊と固着は対立するものではなく、同時に実行され、その時人間は最も奥深く、最も創造的な存在になる。

 漂泊は、ただ放浪し、前へ後ろへ進み続けることだけでなく、自由の喜びと寄る辺ない不安感をも感じさせる。固着は、ただ一箇所に安住することだけでなく、安心感の内に人間の醜さが滲み出ることでもある。
 漂泊する人間の安心したいという願いと自由との対比、固着した人間の満足感と気安さゆえの醜悪な振る舞いとの対比、漂泊する人間と固着した人間との対比、そしてこれらの対立構造を呑み込んで1つの創造的な人格が生まれる。
 「たけこのぞう」では、主人公である猛子は外国を放浪していても心は実家に根づき、いくらでも昔のことを思い出せた。一方、母である松子は、いつまでも実家に留まり続けていたが、家の中で、自身の自由は常に守った。2人とも絵描きで、その描き方も、周囲からの評価も全く異なる。しかし高く評価されたのは、松子の方だ。
 松子の自由を守る姿勢は、一見、家の中の気安さゆえの身勝手さと映る。しかし松子は家の外でも自由を守る姿勢を崩さない。後妻にしてくれようという資産家の申し出を断ることは、ただ安穏と家に固着している人間にはできない。松子には漂泊することへの強い意思があるのだ。
 その場に留まることができ、さらに自由も保証されているという二重の安心感が、漂泊の不安を打ち消す。身勝手さは自由な生活の中で、さらなる自由を促す。自由な精神の遊びの末に、創造性が生まれる。創造性は単に自由なだけでなく、一箇所に腰を落ち着けてから、自由に心を遊ばせることで、ようやく働くのだ。


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