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それなりにぽつーんと。思い出すように綴る。独り言のよーに綴る。

 (お借りした写真に)なんて独特な絵なんだ、目がちかちかする、何を表してるか全く分からないのを見るにこれは、あれか、前衛的アートというやつか。

…。正直ああいう絵は書いてみたくもある。こんな色彩の暴力をしっかりと表すような絵を描いた人間は少ないだろう。すげえなぁ。突然視界がこんな風になったら自分は一体どうなってしまうんだろうなぁ。視界がおかしくなる、という事象は原因はあるんだろうけど急に来るもの、と自分は認識している。案外変わらないのだろうか、色覚異常に近い、それでも生きる人はいる。青を赤と認識する人はいる。多分。

うーん、青を青として見れたとして、つまり色覚異常が無くなったとして、それが正常な色であるとどうして言えるのか。自分にはよくわからない。

あぁ、でも、他の人と同じ色を見ている。という事実を持つことの方が大事な事なんだろう。

 この点で言えば本当の事、実際のところ、というのは、関係ない。本人にとって大事なのは人と色を共有出来ることなのだ。例えば自分たちの見ている色というものが嘘っぱちだったとしても、それが何らかの手段によって嘘っぱちと分かったのだとして、そこに何の問題があるんだろうか。

…でもそうなったら本当の色と言えるものはあるわけだよな…綺麗な色のみを本当の色として見ることになるのだろうか。もうここまで来たら嘘も本当も関係無いよな…。信じたいものだけを信じるって言うのは盲目的ではあるけど幸福なんだろうなぁ。


 noteは白いキャンバスと何処かで言ってた気がします。何らかの色が飛び散ったものもそれは芸術足り得る、らしい。その価値を分かる人はいるかどうかは分からないけど。それでもそれを分かれる人間はきっと、その色を持ってる人間しかいない、と思う。ついでに言うと芸術なんてものは自分の爆発の形だと思うし、誰かに食べさせるための料理なんかじゃない。そりゃ皆美味しい美味しいと言って食ってる輩は散見されますが…。芸術を何処かに掲載している以上は食うも食わないも自由な場所ではありますし…いや、残念ながら…。

他人からの認証は確かに創作の原動力になります。でも、他人からの認証の為だけの芸術でも無いでしょう?…それだけです。うん。だからどうという事もない、でも、その、何かを吐き出したい欲、熱があるのに何も生まれないというのはそれこそ勿体ないんじゃないか。そこに書きたい、伝えたいがあるのなら、形にしてみてはどうか、と思ったりはする。いや、形は無いのだけど、視認できる言葉に、と。

少なくとも自分はそこにしかない言葉を待てる人間になりたい。待てる人間に、なれたらいいなぁ。そんな大層な人間でも無いんですけどね。


白いキャンバスには無限の可能性が、未だ描かれない物がきっとある。そういう作品だけでなく、それを描ける人間もまた素敵だ。上位互換の方が多い現代だけど、上位互換に阻まれながらじゃないと描けない作品もある。それは、美しいだけが芸術じゃないと証明するものであると、自分は信じたい。

いずれ貴方の白いキャンバスが貴方色に染まる事を切に願っております。

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