【小説】 競技学習RTA(1)

 都市は青白いホログラムの光に包まれている。スカイタワーから流れ出る学習指針は、膨大なデータと統計的傾向から算出された「最適教育プロトコル」だ。誰もが生まれたときから専用のAIナビゲーターを持ち、学ぶべきスキル、読むべき本、接触すべきコミュニティは予め定まっている。地図をなぞるように、人々は効率的な学習経路をただ進んでゆく。それはまるで、ツールアシストされた完璧なアーカイブ――TAS(Tool-Assisted Study)――のような世界だった。

 しかし、その夜明け前の細い路地裏で、ユイは密やかな試みを始めていた。ユイは15歳になるまで、ずっとAIナビゲーターの指示に従ってきた。数学は12歳で学習済み、文学は13歳、次世代量子演算理論は14歳、すべてが理想的なレールの上にあった。そのレールを走る限り、ユイは一切つまずくことなく知識を獲得できる。最小の努力で、最適な出力。それこそがこの世界の「賢さ」の証明だった。

 だが、ユイには物足りなかった。効率的すぎる学習は、知識を得る過程にあまりに透明で、味わいも、苦闘もなかった。学びという行為は、いつしか呼吸や食事と同じ、ただ与えられた栄養素を摂取する行為になっていた。ユイは、どうしても人間自身の「リアルタイムアタック」をしたかった。AIなしで、人間による人間のための学習経路を辿り、その中で挫折し、試行錯誤し、奇妙な寄り道をする中で見つける「何か」を得たかった。

 ある晩、ユイはナビゲーターをオフにする。人がそんなことをするのは極めて異例だったが、違法ではない。ルールは「最適なプロトコル」を推奨するが、強制はしないのだ。代わりに、一切のサポートが得られない。「ナビゲーター非使用者」として生きることは、地図のない荒野を歩くようなものだった。

 ユイは学習目標を自分で決めるべく、古い図書館へ足を運ぶ。AIの最適化機能が利用できない貸出端末に触れ、時代遅れの製本本を探す。その図書館はほとんど人がいない、ただ古びた紙とインクの匂いが満ちる静かな空間だ。そこでユイは、かつて誰もが自分の好奇心に従い、書棚を巡って本を引き抜いては学んでいた、という時代があったことを知った。

 初めは困惑した。何を選べばいい? どの本が自分を成長させる? ナビゲーターなしでは、ただ並ぶ書名も作者名も、何が有益なのか分からない。ユイは手探りで、分厚い植物学大辞典を選ぶ。AIは植物学を学ぶのにこの本は絶対選ばなかっただろう。時代遅れで非効率、データベースにもない小径の知見が並ぶ。しかしユイはページをめくりながら、一切最適化されていない文脈を読む。頭の中で何度も引っかかる。意味不明な用語、廃れて久しい分類法。戸惑い、止まって調べ、再解釈する。そのプロセス自体に、不思議な充実感があった。

 翌朝、ユイは市場へ行く。そこには無数の品物が並び、人々はAI推奨の生活スタイルに沿って必要なものを迷いなく購入する。だがユイはそこでふと、植物学の本で読んだ古来のハーブが気になる。市場の片隅、もう忘れ去られたエリアで、わずかにそのハーブの種が売られていることを発見した。AIが推奨しない、誰もが見向きもしない種子。ユイはそれを買い、屋上の鉢植えで育て始める。

 成長過程は順調でない。水のやりすぎ、やらなさすぎ、日照時間の調整ミスで何度も枯らしかける。AIなら最適な栽培方法を即座に提示するだろう。しかしユイは、自分の試行錯誤でベターな手法を探る。早朝に、鉢を少し位置をずらしてみる。土の配合を一度変える。害虫がつけば必死に対処法を考える。そんな手探りの行為一つ一つが、生身の頭脳を刺激する。AIナビゲーターのカーニングペーパーなしで走るRTAのように、ユイは自分の手で知識と技術を開拓していた。

 数ヶ月後、小さな白い花が咲く。ユイはその花を見て、自分がたどった学習経路を思い起こす。数学のエレガントな定理も、文学の名作も、量子理論も、AIが用意した道ならば効率的だった。だが今、ユイは植物の生態を理解する過程で、恐ろしく非効率な道を歩いた。それはRTA走者が、ありえないほどの練習とリセットを繰り返して最適な操作を編み出すようなものだ。

 ユイはその実感を胸に、物語を書き始めることにした。なぜか急に語りたくなった。ナビゲーターは非効率だと嘲笑するかもしれないが、ユイは知っている。この物語を書くことが、さらに別の理解や創造への道となることを。AIが敷くレールに頼らず、自分で選んだ紙とインクで紡ぎ出す文字は、また新たな迷路であり、学習経路だ。

 こうしてユイは、人間による人間のための学習RTAを継続する。その試みは無駄が多く、寄り道だらけで、最適解からは遠い。しかし、その「遠さ」こそがユイの糧になっているのは間違いなかった。

 空には相変わらず青白いホログラムが渦巻いている。最適経路と効率を示す光の地図はいつでも手にできる。しかしユイはあえて自分の歩む道を、足で踏みしめる。やがて、その足跡の先には、人間が本来持っているはずの何か、未踏の知恵が咲き乱れる庭があるような気がしてならなかった。

いいなと思ったら応援しよう!