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ノート:二重君主国占領下のボスニア・ヘルツェゴヴィナ
はじめに
本稿は、昨年8月末YouTubeに投稿した解説動画シリーズ「二重君主国占領下のボスニア」作成に際して、リサーチしたことをまとめたノートです。誤字等修正・改行等をしていますが、基本的には動画に必要なリサーチを通史風にまとめたものに過ぎないため読みづらいかもしれません。詳しく学習したい場合は参考文献をご参照ください。
露土戦争と占領の開始
1875年7月にヘルツェゴヴィナのネヴェニシェを中心にオスマン帝国による重税や圧政、ロシアやセルビア、モンテネグロの支援を要因としてセルビア人を中心とする農民蜂起が発生し、ボスニア各地に急速に波及した。翌年春には蜂起軍は全体で2万5千人を数え、オスマン軍3万がその鎮圧に向かった。その他方では75年8月にセルビア、モンテネグロが蜂起に対する支援を表明し、義勇兵や資金、武器などの援助を行った。
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これに反応したのはロシア帝国とオーストリア=ハンガリー二重君主国である。二重君主国はロシアの介入を避けるべく活動したが徒労に終わり、勢力を拡大しつつ紛争の拡大を避けたかったロシアの思惑もまた76年4月のブルガリアにおける大規模蜂起と6月、7月のセルビアとモンテネグロによる対オスマン宣戦によって不可能となった。
7月に墺露はライヒシュタット協定を締結しセルビア、モンテネグロがオスマンに敗北した場合墺がボスニアを、露が南ベッサラビアを獲得するという点を相互に指示したが、互いの理解は一致しておらず(注①)モンテネグロ、セルビアも結局はロシアの最後通牒による休戦まで戦略的な勝利を得られず終わった。
その後77年1月には墺露で「ブダペスト協定」が結ばれ、二重君主国が対土戦争に際して友好的中立を守る代わりに、ロシアは二重君主国によるボスニア占領を支持することが合意された。また追加条項ではボスニア占領の支持に対する対価としてロシアのベッサラビア占領に対する二重君主国の支持も約束され、相互の権利の保障と占領の支持が明記された。
しかしその後行われた露土戦争においてロシアが自国の取り分を通告なく増やそうとしたため、アンドラーシはこれを「抜け駆け」として非難した。そして同じくロシアの拡大を危険視したイギリスと協調するようになり、アンドラーシによる国際会議の開催に対し範囲を示した。この結果開かれたのがベルリン会議である。
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ベルリン会議ではロシアによって建てられた大ブルガリア公国の領土削減やロシアによる南ベッサラビアの併合などといった英露間の取り決めが行われる伴って英露関係が改善した。アンドラーシはこれを二重君主国の外交的孤立の危機と考えイギリスとの協定締結を目指し、6月6日には大ブルガリア公国の領土削減についてイギリスを支持する代わりにイギリスが二重君主国のボスニア占領を支持する、といった内容の協定を結んだ。
そして6月28日、アンドラーシは会議の席上でボスニアに隣接する二重君主国にとって東方問題が重要な問題であることを指摘した上でこの対応を行わなかったオスマン帝国を非難。そしてこの問題は「強力かつ公平な国家」による解決以外道はないと主張し、その「強力かつ公平な国家」による「ボスニア情勢の鎮静化」を行うのは二重君主国であるべきとした。
英外相ソールズベリはこれに対し、ボスニア占領はオスマンの財政に対し利益とはならないこと、セルビアやモンテネグロによるボスニア領有はオスマンの独立を脅かすことを説明し、二重君主国がボスニア統治の適任者であることを説明。ビスマルク、フランス、イタリア、ロシア全権による賛同を得た。そして1878年7月13日に締結された「ベルリン条約」第25条によって、ボスニアの処遇は以下のように決定された。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、オーストリア・ハンガリーによって占領、統治される。オーストリア・ハンガリー政府は、ミトロヴィツァと反対の南東方向へ延びるセルビアとモンテネグロの間にあるノヴィパザル県の行政を望んでいないため、オスマン政府が引き続きこの地の行政を行う。しかし、オーストリア・ハンガリーは、新たな政治状況の維持と交通の自由、安全を保障するために、旧ボスニア州を構成するノヴィパザル県において駐屯軍を維持する、そして軍事上の道路を整備する権利をもつ。このため、オーストリア・ハンガリーとオスマン政府は、この詳細に関する合意を保留する。
このベルリン条約は、二重君主国の外交的勝利に終わったといえるだろう。イギリスの支持によってボスニアを獲得したほか、後には二重君主国の支持によってサン・ステファノ条約より多くの領土を獲得したセルビアの衛星国化に成功した。この主従関係は、1903年の5月クーデターまで続くことになる。
7月29日、二重君主国は7万2千の兵力でボスニアに侵攻した。アンドラーシはボスニアの軍事占領が容易に終わると考えており「軍楽隊で事足りる」と述べていたが、オスマン駐留軍、ムスリム・セルビア人義勇兵の激しい抵抗を受け占領は難航。最終的に主要な抵抗勢力を制圧した同年10月までに26万8千人が動員される状況となり、死傷者、行方不明者の総数は8千人を超えた。ムスリムと正教徒が抵抗を続ける一方、カトリックはこの占領を歓迎したという。
1881年11月にはボカ・コトルスカとクリヴォシェで蜂起が発生し、4日には当局により戒厳令が発された。これに刺激され82年1月11日にヘルツェゴヴィナとボスニアの境界近く、続いて南ボスニアに波及し、7人のムスリムと6人のセルビア人からなる蜂起軍最高司令部が結成され、3000人でサラエヴォに進撃した。これら蜂起軍は82年春には駆逐され、4月22日には州政府(後述)によって反乱終結宣言と参加者の特赦が通告された。
初期の統治とボスニアの地位
二重君主国はムスリム地主層の反乱を恐れて現地に対する行政改革を行わずオスマン帝国の体制を維持した。また、1879年4月にはオスマン帝国との間で「4月協定」が締結され、ボスニアにおける信仰の自由、ムスリムの権利保護、地元住民を官吏として優先的に採用することが決定された。そして、占領が「スルタン皇帝陛下の主権を侵害することはない」との前文における記述が明記され、そのため1908年10月の当地併合宣言までボスニア・ヘルツェゴヴィナは正式にはオスマン帝国領だった。詳細な内容は以下のとおりである。
1.ふさわしい能力を持つ場合には、ボスニア住民を官吏として継続雇用する。
2.とくにイスラム教徒に対して信教の自由が保障される。
3.ボスニアの収入は、当該地域の表性や必要経費などのみに使用される。
4.オスマン通貨は、ボスニアにおいて引き続き有効とされる。
5.オスマンはボスニアに残された武器、軍事用資材を自由に処分できる。
6.地域外に滞在、旅行するボスニア住民の法的身分に関しては、特別法が後に定められる。
7.「ベルリン条約」第25条にそくして、ハプスブルクが軍隊をノヴィパザルへ送るときは、オスマン政府に事前に通告する。
8.ハプスブルクがノヴィパザルに軍を送る際、オスマンの行政を妨害しないことに優位する。
9.オスマンは、規律ある正規軍をノヴィパザルに派遣できる。
10.ハプスブルクも必要に応じ、ノヴィパザルに十分な数の兵力を配置できる。
最も、二重君主国のボスニア統治は4月協定前文、すなわちオスマン帝国の主権を尊重したものだったとはいいがたい。まず、二重君主国は独自の政体を持つボスニアに「州籍」という独自の法的帰属を設置し、1881年11月4日には20歳以上の男性対する兵役義務からなる徴兵制度が導入された。このボスニア兵は基本的に当地の治安維持に用いられたが、ウィーン、グラーツに駐屯する兵士も一定数居た。
また官吏の採用にあたっても現地住民は優先されず、実際に官吏に就いたのはドイツ人、クロアチア人、ハンガリー人にポーランド人といったカトリックがほとんどだった。さらに80年3月28日には世界総主教座、81年6月8日にはローマ教皇庁によってボスニア・ヘルツェゴヴィナの大主教、大司教に対する叙任権がハプスブルク君主に認められ、宗教的支配を確固たるものにした。
次に、ボスニアの行政の整備が行われた。78年9月に共通三省を中心とした「ボスニア委員会」が設立された。その後には共通財務相が三省を代表することとなり、翌年3月に蔵省内にボスニア行政を司る「ボスニア局」が設置された。
また79年12月20日に「ボスニア・ヘルツェゴビナとの共通関税領域形成に関する法律」が施行され、オーストリア帝国とハンガリー王国による共通関税領域(経済アウスグライヒ)にボスニアが編入され、専売制度、通過、商標権などの諸制度も同一化された。これによってオスマンはボスニアから見ると関税上「外国」となったが、これはオスマン政府の同意を得ていないものであり、主権侵害と捉えられてもおかしくないものだった。
1878年10月29日にはボスニアの統治を管轄する「ボスニア州政府」が設置された。後には蔵省によって統治がなされるが初期の統治を行ったのは総督とボスニア以外の二重君主国各地から採用される官吏であった。しかし給与規定や年金規定などが未整備な状態にあり、労働意欲は低く、現地語の理解能力にも乏しい官吏もいた。イギリス領事館は初期のボスニア統治の惨状を見て「ボスニアはオーストリア官吏の下層社会だ」と批判している。
80年2月22日、「ボスニア行政法」が可決された。ここでは鉄道の敷設を中心に政策実行には三省や両国担当省庁との協議が必要とされ、ボスニア行政に対する両国政府や三省の影響力が強いものとなった。
そして81~82年にかけてはイギリス、ドイツ、フランス、ロシア、イタリアの領事館の裁判権限が廃止され、オスマン法を基盤として民法、土地所有関係諸法が整備され、実体法、刑法の分野においては二重君主国の法律を基盤として特別法が制定された。例えば79年の刑法や80年の刑事訴訟法、83年手形法などはオーストリア、83年商法はハンガリー、81年鉱業法、83年破産法は両政府の法規を基盤としてボスニアの現状に配慮した立法がなされた。また、度量衡制度などオスマン制度を踏襲したものもみられる。
また、ムスリムに対する支配についても準備がなされた。1879年5月12日、時の共通蔵相ホフマンはオスマン帝国におけるイスラムの最高宗教職シェイヒュル・イスラームのボスニアに対する影響力を削ぐべく「イスラム教徒内にはその自治的な運営を望む集団がいる故、彼らにその諸制度の運営を委ねるべきではないか」と提言した。しかしアンドラーシはそれこそがシェイヒュル・イスラームの影響力強化につながるとし、現地の自治を望むムスリムから宗教指導者を選ぶことが肝要とした。
他方のオスマン政府は既に4月協定に則りボスニアへの人物派遣を決定しており、シュクリという人物が派遣される手はずとなっていた。アンドラーシの後任ハイメルレは在オスマン大使デュブスキを通してオスマン政府に派遣延期を要請。この延期期間に80年共通蔵相となったスズラヴィはロシアのコーカサス統治、フランスの北アフリカ統治などの状況を外交筋を通して入手。状況の把握に努め、82年に蔵相に就いたカーライによってこれは成就した。
1882年2月9日、シェイヒュル・イスラームは現地のムスリムから指導者を選出することを決定しサラエヴォの司法官(ムフティー)であるオメロヴィチにボスニアにおける宗教指導権を委譲した。オメロヴィチはかなりの親二重君主国派であり、カーライにこのことを報告。カーライはこれを利用しオメロヴィチを頂点とする新宗教制度の確立を始めた。
10月にウラマーの指導者レイスル・ウレマーと委員4人から構成される「ウラマー・メジュリス」が設置され、このレイスル・ウレマーを頂点とする体制がボスニア・ヘルツェゴヴィナのには築かれたが、このレイスル・ウレマーの任命権もハプスブルク君主にあった。
さらにはムスリムが行う金曜礼拝においてオスマン皇帝の名前を明言することを禁止するなど、占領初期の二重君主国はボスニア・ムスリムをハプスブルク君主のコントロール下に置くことに腐心していた。当然初代レイスル・ウレマーはオメロヴィチである。このようにレイスル・ウレマーの設置はシェイヒュル・イスラームの認可を利用したものだったが、オメロヴィチが病を理由に退職し後任に就いたアザパギッチはシェイヒュル・イスラームの認可を得ずに就任、1909年までその地位にあった。
オスマン政府は1895年にアザパギッチの地位について抗議を行ったが、カーライはこれが現地住民の支持を得ていることから四月協定には反しないとしてこれを退けた。
また、当地に対する教育政策もスタートした。オスマン帝国支配末期にはイスラムにおける宗教教育施設メクテプなどの公共初等教育が始まっていたが、当地開始時期の識字率は約3%にとどまり、教育を普及させるべく小学校の設置を早急に推し進めた。
この政策の中では現地住民への配慮から就学義務の導入は制限されたが、郡の官吏にはこの通達を理解せず就学を強制するものもいたようである。さらに、教員不足から1880年には駐屯軍の下士官を教員として採用、81年時点では約半分が下士官出身の教員であったが、彼らは現地語に詳しくなかったためこれは現場に混乱をもたらした。トレビニエ郡では現地語での教授能力が低い教員が3人ほどいたため、セルビア人やムスリムが学校を「ドイツ人学校」と呼び登校を拒否する事件が起きた。
カーライの時代と「ボスニア主義」
1882年には、二重君主国共通蔵省にベンヤミン・カーライが就任した。彼はボスニアの統治体制が未整備な状態にあるとして改革を推し進めた。まず蔵省直属の文民補佐官を設置し、州政府各局の長官と内政について討議することとされた。また文民補佐官は共通大蔵省に対して意見書を提出することが許されており、文民補佐官と官吏が民政の主導権を握った。
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また地方行政に関して新規定も設定され、州政府、県庁、郡庁というピラミッドの行政機構が組織された。県庁は県内の郡庁における行政運営の統括を行い、郡庁は内政、裁判所、営林署、税務署、郡内の秩序維持を行った。官吏に関しても労働環境の整備などによって現地語を介する意欲的な人材を確保し、86年1月には年金、96年には給与性を導入しボスニアを除く帝国領出身の官吏によるボスニア統治への参加が奨励された。またシャリーアを組み込んだ司法制度も整備されここにボスニア統治の基盤が作成された。
こうした政策によっていったんの完成を見たボスニアの諸政府を概観する。州全体を管轄する州政府の頂点には現地駐屯軍である第15軍団司令官を兼ねる総督が置かれたが、民政は文民補佐官によって取り仕切られた。州政府は政治・行政部、財務部、司法部、建設部、83年に新設された文民補佐官直属の統計部によって構成された。
これらの部局長と文民補佐官によって政府会議が構成され、複数の部局に関わる案件や人事、懲戒などに関する決定を下した。官吏は二重君主国各地から集められたが後には教育政策の結果ボスニア出身の官吏も増加し、1906年には27.7%だったのに対し1910年には38.6%に増加している。高級官僚はドイツ人に独占されていたが、全体としてはボスニア出身者やポーランド、クロアチア出身者などスラヴ人が8割を占めた。
州の下部組織としてビハチ、バニャ・ルカ、ドニャ・トズラ、トラヴニク、サラエヴォ、モスタルの6県が設置され、その下に属する郡が54郡設置された。この郡を統治する郡庁は行政における最下級の官庁であり、行政、裁判所、税務署、営林署の機能を併せ持った。
各郡には助言的決議を行う郡諮問委員会が設置され、全宗派から構成された(この制度はオスマン時代に由来する)。郡庁と州政府の間には県庁があり、刑事案件の第二審、森林、風紀警察に関わる公安警察の案件、森林法に関わる処罰抗告を行った。
これはカーライ以前には正常な機能を失っていた教育政策にも影響した。地方行政の組織化に伴い小学校関連業務の管轄も明確に規定され、郡庁は教材、教室の衛生、教職員の政治道徳的態度の監督などといった現場の管理義務を負った。また県庁には視学官が設置され、当局の指示に沿った実践を現場で確認することにあり、この報告書は全県視学官年次会合で提出・討議されそれを基に州政府は教育政策を立案した。
こうして教育行政が盤石な組織となると、教育のボスニア全土に対する普及が次なる課題となった。小学校建設費用の推移をみると、78~86の計98000クローネから87~94までで計384000クローネ、96~1906までで132000クローネと増加の一途をたどっている。そして増加する学校に必要な教員を育成する機関として82年9月に3年制の補助教員養成施設が設立され、この施設は86年10月に州政府運営の教員学校に移行した。
また、1892年にはムスリム向けの教育施設として新たに「改革マクタブ」が設立された。従来のイスラム教育施設マクタブでは、明確な就学期間がなく長期化するケースが多かった。しかし改革マクタブでは年限が3年に固定され、その卒業生は公立小学校に3年次編入することができた。
教育内容に関しては従来通りクルアーンの暗誦を中心としたが、近代的な教育設備が整えられ教員もムスリム専門の師範学校を出た人々が主だった。これは創設後ボスニア各地へ広まり、1906年には前93校、生徒数も7600名ほどに拡大した。
彼はボスニア固有の歴史の研究を奨励し、88年に州立博物館を設立するなど、文化研究を支援するとともに民族ではなく「ボスニア」という地域に根付く愛郷心「ボスニア主義(ボスニャシュトヴォ)」の拡大を目指した。
また、以前は宗教によって分かたれていた学校制度を統一し、セルビア語、クロアチア語を「ボスニア語」として統合した。このような公立学校政策により公立学校の生徒数は82年の3344人から11972人にまで増加した。これはボスニアにおけるセルビア人やクロアチア人の民族主義の拡大を阻止するべく行われた政策であるが、これに対する住民の反応は冷淡なものであった。
また、セルビア国境部におけるセルビア民族学校によるプロパガンダへの対抗上国境部ドニャ・トズラ県などに多くの公立小学校を設置し、1885年時点ではサラエヴォ県11校、モスタル県10校に対してドニャ・トズラ県には29校の公立小学校があった。ボスニア・セルビア人はセルビア王国や二重君主国支配下のヴォイヴォディナなどと連絡を取り、宗教ごとに分けられていた教育機関の中で彼らから送付された教科書、教師を用いて教育を行っていた。
占領直後には56校(生徒数3523人)の学校があり、トズラのセルビア人学校を視察した人物によれば学校にはフランツ・ヨーゼフ以外にミラン・オブレノヴィチの肖像画が飾られていた。ボスニアの住民はこのような民族学校と公立学校の選択を行う必要があった(セルビア人においては、中高等学校への進学が容易な点、商業活動上必須な言語教育が充実している点などから公立学校への進学が多かった)。
ムスリム層も二重君主国の支配にはあまり好意を示さなかった。確かに二重君主国の統治は部分的にイスラム支配の時代を踏襲していたが、教育制度を中心に西欧的政策の押し付けは多く、現地のムスリムからは批判された。
こういった背景から、4月協定の遵守を念頭に置いたた嘆願書がムスリムの署名を得て1900年12月カーライに届けられた。ここでは皇帝の傀儡と化しているレイスル・ウレマーを批判し、オスマン帝国のウラマーの長シェイヒュル・イスラムが認めた人物をレイスル・ウレマーに就けるよう要求したが、カーライはこれを棄却し1902年にイスタンブルに訪問した嘆願書作成者アリ・ジャビチに対して帰国を禁じた。
しかしこうした政策はかえってムスリムの連帯を生み、カーライ死後の1906年12月にはボスニア・ムスリム初の政治団体「ムスリム民衆組織」が設立された。また教育政策についても不一致が起きていた。この大きな要因としてはマクタブがムスリムにとって主な教育機関と認識されていたことがあり、実際に1900年時点では公立小学校200校の生徒2万1830名のうちムスリムは18パーセントにとどまっており、1907年のマクタブ校数と生徒数を見てみるとそれぞれ校数940校、生徒数3万5856名となっている。
改革マクタブは公立小学校への編入が可能となっていることは前に述べたが、この制度はあまり利用されていなかったということが見て取れる(実際ヘルツェゴヴィナ南部トッツァの報告によれば、公立小学校へ行くものは少数で、大多数はカフェや賭博場へ出かけていた)。
しかし、1870年代に生まれ二重君主国の下で初等教育を受けた、いわゆる「進歩的ムスリム」はイスラム的な価値観と帝国の価値観との融合を画策し、その中心人物サフヴェト・バシャギチは1900年5月1日に文芸誌「ベハール」を創刊した。これはボスニア・ムスリムがボスニア語で記した初の文芸誌であり、社会問題に関する論説やトルコ語、アラビア語古典の翻訳など様々な文芸作品が掲載された。
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中でも、1~21号に掲載された「101のハディース」では、ハディースに依拠した社会問題の解決が試みられ、「祖国を愛することは信仰の一部である」とのハディースを引用しボスニア・ムスリムの連帯を主張。またムスリムの間で「民族」理念が芽生えない要因として「家庭と学校での教育」と「ウラマー層の存在」にあるとし、嘆願書運動に対して批判の姿勢を見せた。教育政策についてベハールではクリミア・タタール人の教育改革者イスマイル・ベイ・ガプリンスキーによる改革を「われわれボスニア・ヘルツェゴヴィナのムスリムのとって素晴らしい教訓」とし、マクタブを排し算数や地理、歴史などの教養諸科目を教える新方式学校の設立を標榜した。
ベハールの標榜する教育改革論については、1904年のベハール17,18号に掲載されたムフティチの論考「われわれの教育」などがある。ここではまずマクタブの設備、学習内容に対する批判が行われた。設備が整っている点は評価されたものの改革マクタブにも学習内容について同じ批判が行われ、同様にマドラサなどにも批判が行われた。
また民族言語の導入が主張され、「もし宗教についての書物が民族の話す言葉で書かれていなければ、美しいシャリーアも人々に対して届くところのない声になるということを覚えておこう」とムスリムの視点からこれを主張した。このようなムフティチの主張に潜んでいるのは、民族としての帰属意識とムスリムとしての帰属意識の交差であり、実際この主張の中の要件を満たす公立小学校への登校は奨励せずあくまでマクタブやマドラサの改革が必要であるとしている。
ブリアーンの時代とボスニア併合
1903年にカーライが死去すると、後継者にはイシュトヴァーン・ブリアーンが就いた。彼の時代には自由主義的な性格が徐々に取られるようになり、政党の結成、各種新聞の発行が認められ、セルビア人やクロアチア人といった民族の名称を用いることが許可された。また1909年5月1日の前184項からなる「自治法」によってムスリムはレイスル・ウレマーの候補者やウラマー・メジュリスの選出、ワクフや宗教施設の運営などといった項目に代表される自治権を得た。
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彼の時代に起きた最大の事件はボスニア・ヘルツェゴヴィナの正式な併合である。二重君主国は1881年にセルビアとの間で結ばれた政治的同盟・通商条約によって、セルビアを事実上の傀儡国にした。セルビアの貿易のほとんどが対二重君主国のものとなり、セルビアの政治は二重君主国の意向を多分に含んだものとなった。
しかし、1903年に自体は急変する。セルビアで将校団によって国王が暗殺され、アレクサンダル・オブレノヴィチからペタル・カラジョルジェヴィチへの王朝交代が発生した(5月クーデター)。彼は親仏露主義者であり、二重君主国の支配からセルビアを解き放つために行動を開始。以後、セルビア・二重君主国関係の悪化に伴いボスニアの正式な併合が画策されるようになる。
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また、1885年9月には隣国のブルガリアが武装蜂起の占領によって東ルメリア州を統合したという事件があったため、これと同じ出来事がセルビア・ボスニアにおいても発生する可能性が危惧された。さらに、ボスニアが「占領」という状態にあることはボスニアで活動する反乱指導者、テロリストに「国事犯」の容疑を適用するのを困難にした。
翌年3月にはセルビアとブルガリアの間に友好同盟条約、関税同盟が結ばれた。これに対し二重君主国は家畜の輸出入を禁ずることによってセルビアに圧をかけ、一度はセルビアを屈服させることに成功したが、ブルガリアとの条約締結時外相であったニコラ・パシッチ率いる急進党が再び権力の座に戻ると事態は急変した。
セルビアは二重君主国がしていた要求を拒否し、高関税や禁輸によってなされる経済戦争が始まった。これは1911年まで続き、主に家畜の関税や輸出入が争われた事から「豚戦争」と呼ばれる。この戦争は、セルビアがテッサロニキを通じてエジプトや地中海方面に市場を拡大したことによって二重君主国の重要性が下がりセルビアの勝利となった。
この事件をもって二重君主国では共通外相ゴルホフスキーが失脚、新たにエーレンタールが外相に就いた。彼はヘッツェンドルフに「ボスニアの併合、ブルガリアと共同でセルビアを分割」する意思を伝えた。また、1909年12月1日の大臣連絡会議では、次のような議論が見られた。
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ブリアーンはボスニアにおける不穏化の原因をカーライに求めた上で、発展能力のないムスリムや数の少ないカトリックではなく、政治的に最も活発なセルビア人を支持者として取り込むべきと提案した。また後述する「セルビア民族組織」についても「あくまで占領状態における自治を求めているにすぎず、革命運動の危険はない」とした。
彼はさらにボスニアの自治を拡大すべきとの主張を展開し、郡、県、ボスニア議会の招集を目指した。これはだいたいの大臣からは支持された。次に発言したエーレンタールも概ね併合に賛成する立場をとったが、その実行は「ベルリン条約25条以外の規定が改正された時」と即時の併合には慎重な姿勢を見せた。
翌年の春、ブリアーンは再度の併合要求のために建白書を作成した。ここではマケドニア情勢の悪化の前に併合を実行しなければならないことや、以前のハンガリー王冠領への併合ではなく共同統治領としての地位を維持したままでの併合などといった主張が見られる。
また共同統治領としての新たな法的枠組みの設立にも言及しており、ロシア領フィンランド、ドイツ領エルザス=ロートリンゲンなどを先例として挙げている。フランツ・ヨーゼフ帝はこれに賛意を示したものの、エーレンタールはこれに反対した。何よりエーレンタールは、ベルリン条約を一方的に破棄することによってバルカンにおけるロシアの諸要求が再発することを懸念していたようである。だが彼も将来的な併合には賛意を示しており、併合を「我々の政策の目標」とした。
しかし、1908年に青年トルコ革命が勃発すると事態は一変する。エーレンタールはブリアーンの建白書に全面的に賛成し、ブリアーンは後に「この日からエーレンタールとの熱心な協力が始まった」と記している。
そして8月19日、9月10日にボスニアとその周囲のサンジャクに対する駐屯権に関する問題を議題とする共通閣議が始まり、その場でエーレンタールは青年トルコ革命のボスニアへの波及によってサンジャク駐屯兵がオスマン国内の混乱に巻き込まれる可能性を指摘しながら併合の必要性、フランツ・ヨーゼフ帝からサンジャクからの撤兵と併合について是認を得たと明らかにした。
ブリアーンは彼以上に強く併合を主張し、青年トルコ革命によって建白書が想定した以上の事態となっているとした。また彼はオスマン議会の招集が近日に予定されていたことに触れ「オスマン議会の最初の行動が、トルコ帝国の不可侵性に関する宣言、並びに占領委任の解消要求であろうことは疑いない」とボスニアを失う可能性について指摘した。
このように併合派が政府高官の多数派となっていったのだが、エーレンタールがこれを合法的に行うべくオーストリア、ハンガリー領議会が併合を承認する法律を可決するべきと主張し、共通政府、オーストリア、ハンガリーからそれぞれ併合法の法案が出された。
まずエーレンタールによる併合法原案はボスニアの本国政体への統合、ボスニアのハプスブルクの継承法の拡大、ボスニアの国法的立場に関する最終的解決の保留、併合後の地域憲法導入とボスニア議会の開設といった条項が設けられた。しかしこれはハンガリー首相ヴェケルレの抵抗を受ける。
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彼はハンガリーによるボスニア領有が「歴史的権利」であるとし、ボスニアのハンガリーへの帰属を主張した。さらにエーレンタールやブリアーンは三重帝国構想をも視野に入れていたが、ヴェケルレはこれを「論外」と退けている。これはオーストリア首相ベックも拒否し、さらに4月協定がスルタンの主権を明記していることを盾にヴェルケレの言う歴史的権利を否定した。
一方、オーストリアから出た併合法は概ねエーレンタールによる原案と一致するものだった。しかしこれは結局まとまり切らず、併合宣言は特に法的地位を定めないまま宣言された。つまり、これはボスニア行政法もベルリン条約も反故にしたものであったということであり、国際的にも国内的にも違反行為だった。
ブリアーンは各地で噴出していた民族主義に対する解決策としてボスニア議会の招集を提案し、そのためにはボスニアの二重君主国への併合が不可欠であるとした。これは皇帝フランツ・ヨーゼフを議長とする閣議で「状況が許すならば」併合をするべきであると留保付の承認を得た。このような情勢下で、10月7日官報「サラエヴォ新聞」はフランツ・ヨーゼフ帝のこのような布告を掲載した。
朕は,両州の住民に対し,その政治的成熟への朕の信頼の新しきしるしを与えるべき時期が到来したと考えるものである。ボスニアとヘルツヱゴヴィナを政治生活のより高き段階へ引き上げるため,朕は両州に対し,両州の状況と一般的利益に合致せる立憲政体を援け,それによって住民の希望と必要を表明する法的基盤を作り上げることを決意した。汝等は,今後両州の内政に関わる諸決定がなされる場合には発言権を有することになろう。ただし,従来通り特別の地方庁は置かれる。しかしながら,この地方憲法を導入するためには両州の明確なる法的地位の確立が絶対的前提条件である。この理由から,また,その昔,ハンガリー王位にあった我が栄光ある祖先達と両州の間に存在した絆に鑑みて,朕はボスニアとヘルツェゴヴィナに,我々の宗主権を拡大するものである……」s
畳一畳ほどの白紙にキリル文字で記されたこの布告に対して、諸外国では主に英露とドイツの対立があった。英露は国際会議による解決を標榜したが、ドイツ帝国首相ビューローはこれに反発し併合を認めるよう強く勧告。ロシアはこれを最後通牒とみなし譲歩、併合に始まる「ボスニア危機」は幕を閉じた。
この報に最も反発を示したのは、カラジョルジェヴィチ朝の率いるセルビア王国であった。10月6日の併合宣言の日、新聞「ポリティカ」の呼びかけによってベオグラード市の四分の一に当たる2万人が抗議デモを行った。
以降、戦争準備のような空気感の中ベオグラード市内では毎日のように会合が開かれ、作家ブラニスラフ・ヌシッチは義勇兵部隊の編制を提案。結果「民族防衛団」と呼ばれる結社が創設され、これにはドラグティン・ディミトリエヴィチ、ヴォイスラヴ・タンコシッチ、ミラン・ヴァシッチなど将校も加わり、ゲリラ部隊の訓練にあたった。
またこの運動はボスニアにも波及した。ボスニアに存在した秘密結社の「鷹」はセルビアの民族防衛団と連絡を取っており、教師でプリボイ支部の指導者ヴェリコ・チュプロヴィチ、映画館経営者でトゥズラ支部指導者のミシュコ・ヨヴァノヴィチなどはシャバツの民族防衛団支部長ボジョ・ミラノヴィチを訪れ、それぞれの地域における「民族防衛団代表者」として任命された。
セルビア政府はかねてよりボスニアを中世の失地「旧セルビア」とし奪取の機会をうかがっていたため、戦争も辞さない態度を見せたが、セルビアもロシアの援助が得られないことを知ると1909年にドイツの圧力に屈した。
正式に併合されたボスニアでは、ムスリムの自治に関する交渉が行われていた。初めはブリアーンとムスリム民衆組織が1907年に始めた交渉であり、結果1909年5月1日に全184項からなる「自治法」がムスリムに向け発表された。
これにはレイスル・ウレマーやウラマー・メジュリスの選出、ワクフやイスラム教育施設の運営といった幅広い分野においてムスリムの自治が認められた(もっともレイスル・ウレマーの選出についてはボスニア・ムスリムの代表者30名からなる選挙委員会が候補者3人を選出し、ハプスブルク君主が3人の内から適任者を任命、シェイヒュル・イスラームの認可を求めるという形になった)。
ボスニアの併合と自治法の制定によって二重君主国に対する対抗姿勢をとっていたムスリム民衆組織と順応する姿勢をとっていた進歩的ムスリムはその関係を大きく変容した。ムスリム民衆組織は併合直後からオスマン帝国議会に直接働きかけていたが、オスマン帝国が賠償金と引き換えに併合を承認、4月協定を無効とするとムスリム民衆組織はオスマン帝国との関係強化をあきらめ、進歩的ムスリムと歩調を合わせるようになった。
ムスリム民衆組織の機関誌「ムサヴァト」では嘆願書運動が「西洋的教育を受けた少数の知識人層」の存在を無視し、ボスニア・ムスリム社会に多大な損害をもたらしたと批判的に顧みた。そして「民族」を念頭に置いた教育改革論を主張し、進歩的ムスリムに対し歩み寄る姿勢を明確なものとした。
かかる情勢下で、新たな自治制度の中でレイスル・ウレマーにはジェマルディン・チャウシェヴィチが選出された(1914年3月26日)。彼は1870年に生まれ、17歳の時にイスタンブルへ留学。1903年に帰国し、05~09年までウラマー・メジュリスの一員として活動した。
その中で彼はボスニア各地の教育制度を視察し、ボスニアの教育改革の必要性を確信。これと思想を同じくする進歩的ムスリムに接触し、ベハールの編集にも携わった。彼が選出されたのはこのような経歴からであり、就任直後からその教育改革案に注目が集まっていた。
まず彼は民族言語の策定としてアレビツァ(アラビア文字によるボスニア語表記)を整備し、アレビツァ教科書を多数出版した。また算数、地域史などの世俗科目が導入されたマドラサが多数設置され、概ね進歩的ムスリムの青写真を現実のものとするような政策がとられた。
立憲時代のボスニア政治と諸民族
この後には二重君主国の官吏によって憲法草案が作成され1910年2月に憲法が制定、6月に成人男子選挙に基づく議会が開設された。ボスニア憲法は地方基本法、議会の選挙規則と議員規則、結社、集会、郡評議会などの諸法から構成された。
これによってボスニアは共通省庁の下部機関とされ、法制化されることなく通じていた「州籍」が正式な法的地位となった。議員は各宗派の代表と上級裁判所長官、サラエヴォ市長、商工会議所会かしらなどの勅撰議員20名(セルビア正教徒5名、ムスリム6名、カトリック教徒8名、ユダヤ教徒1名)と公選議員72名から構成され、選挙権はボスニア州籍を持つ25歳以上の男子全員に、被選挙権は30歳以上の男子全員に与えられ、議員の任期は5年、議長1人と副議長2人からなる議長団が毎年会期の開始時に皇帝から任命された。議長職はムスリム、正教徒、カトリックの輪番制が採用され、議事日程の調整や議会内の秩序維持の面で大きな権力を保有していた。
議会は君主の命によって年に1度州都サラエヴォに招集され、予算、借款、民法、商法、手形法、山林・鉱業法、、出版・著作権保護、林業・農業、土地所有、文化・教育制度、衛星制度、刑務所の設置、政府側から提出された鉄道敷設、地方自治体や州政府に属する財産の処理などに関する立法権を有していたが、これらの案件については両政府の許可が必要となった。
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また、二重君主国本国に関する案件をはじめボスニアと二重君主国の関係に関する案件についてもボスニア議会の管轄には含まれておらず、君主国本国への影響が最小限にとどめられる形で議会が設置された(しかし、共通蔵省はボスニア議会を無視して立法を行うことはできなかった)。
こうして一定の自治権を得た二重君主国におけるセルビア人、クロアチア人、ムスリムは政治活動をより活発化させた。ボスニアにおけるセルビア人の政治運動は、1881年に徴兵制の導入に反対するモスタルのセルビア人共同体による運動に端を発する自治要求運動に始まる。
彼らは嘆願書を作成し新聞「セルビアの意見」を発行。モスタルを超えボスニア各地で集会が開かれ、1905年に当局はボスニア全土のセルビア人の教会と学校に自治権を認めた。これそのものにも大きな意味があるが、この政治経験とカーライ死後の自由主義的な諸政策が1907年の政治団体「セルビア民族組織」を生んだ。
議会ではセルビア人に割り当てられた31議席を独占し、セルビア本国の民族主義者と共鳴した。彼らは農民からの強力な支持を得ていたものの、議会ではムスリムと組んだため農奴の貢納義務廃止などを取り決めた農地改革案の支持を躊躇うなど矛盾をはらんでいた。
クロアチア人はセルビア人と比べると中間層が薄く、また世俗の利害と宗教の利害を接続する組織などもなかったため、政治運動は知識人・中間層・フランシスコ会の中で発展した。
当時のクロアチア政治運動には1908年に設立された「クロアチア民族連合」と1910年に設立された熱心な改宗主義者からなる「クロアチア・カトリック協会」の二派があった。前者はいわゆる三重帝国構想を支持するセルビア民族組織のクロアチア版といったもので、後者は司祭ヨゼフ・スタドレル率いる急進的なカトリックの一団であった。
議会ではクロアチア民族連合が20議席を獲得、クロアチア・カトリック協会が4議席を得たが、クロアチア人主流派の民族連合はムスリムとセルビア人の政治同盟の前に除外されていた。しかし翌年になるとクロアチア人とムスリムの関係が再構築され、議会が1914年6月に閉鎖されるまではこのクロアチア・ムスリム政治同盟が多数派を維持した。
ボスニアの政治を特徴づけるムスリムのスラヴ人は、常にセルビア人、クロアチア人の双方から「アタック」されていた。彼らはどちらもムスリムのムスリムを含めなければ過半数を獲得できなかった。しかし、ムスリムも他勢力との同盟がなければ利益を確保できなかった。
実際この後のユーゴスラヴィア王国でも、ムスリムはセルビア人と結び利益を確保した。彼らは自らをオスマン帝国の特権層と認識しており、キリスト教国家たる二重君主国による支配に対する恐怖があった。実際カーライの時代には先述の通りアリ・ジャビチの政争があったが、ブリアーンの時代になると政府の姿勢は軟化した。
この軟化に伴い1906年12月には地主が中心となって「ムスリム民族機構」を設立、機構は18年に成立した後継政党「ユーゴスラヴィア・ムスリム機構」と共に以後の近代ボスニア政治生活において無視することのできない存在となった。彼らは二重君主国によるボスニア併合に対する反対運動を強固に行っていたが、1910年2月に併合を承認し議会への道を切り開いた。ムスリム民族機構はムスリムに与えられた24議席を独占し、ムスリム地主層の特権維持を主な至上命題とした。
これらの諸勢力は1910年の議会制開始以降、連合と解散を繰り返した。議会制が始まるとセルビア民族組織とムスリム地主層が連合したが、ムスリム地主に対する農民蜂起が発生するとこれは解消され、クロアチア民族連合との連合が始まる。これ以降セルビア人勢力は野党として過ごすことになるが、セルビア王国の興隆に勇気づけられて活発に活動していた。彼らの対立は激しいものであり、侮辱や疑似妨害、議場退去などが日常化していた。
クロアチア人とセルビア人の間には前述のとおり「いかにしてムスリムを引き込むか」という問題が日々議論されており、彼らはムスリムに自らの民族的帰属を公言するよう働きかけた。
これに応えた者の数は多くはなかったが、ザグレブやウィーンへの留学を通してクロアチア民族主義に傾倒した人々、1900年以降のセルビア国家の繁栄に影響されセルビア人を宣言する人々も多くなっていった。
彼らは表面的にセルビア人やクロアチア人としてふるまうことこそあれど、既にイスラムに基づく固有のアイデンティティが形成されていた。しかし彼らはこれを宗教的なアイデンティティであるとする立場を基本的には示しており、社会主義体制の時代まで「ムスリム人」を名乗ることには抵抗を示していたようである。
第一次世界大戦とボスニア
セルビアは二度のバルカン戦争においてどちらも勝利をおさめ、現北マケドニアの領域をほとんど獲得した。二重君主国はこれに対し介入策をとらなかったが、このために南スラヴ人の間では二重君主国の軍事力を軽んじる風潮が広まった。結果セルビアやモンテネグロに隣接する地域では武器や政治文書の密輸が相次ぎ、国境警備隊と山賊が戦闘を繰り返していた。
このような情勢下で発生したのがサラエヴォ事件である。殺害されたフランツ・フェルディナンドはセルビア人から三重帝国構想の支持者であるとみなされており、それがセルビア王国の領土拡大を阻害する要因となりうるという動機から殺害された。
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実行犯8人のうち実行犯ガヴリロ・プリンツィプ含む7人がボスニア・セルビア人だった(一人はムスリム)。実行犯プリンツィプは「青年ボスニア」という秘密結社に加入しており、青年ボスニアはセルビアの秘密結社「黒手組」と接触していた。この黒手組にはセルビア陸軍の高級将校も加わっており、武器の提供や訓練などの後方支援を行っていた。
本件を受けた二重君主国上層部では、すでにセルビア本国の関与が確実視されていた。ボスニア総督ポティオレクは蔵相レオン・ビシンスキに「暗殺犯らはセルビア国鉄の官吏であり、民族防衛団の構成員ランコヴィチが彼らと共謀し武器を得ている」こと、「セルビア軍少佐ヴォイスラヴ・タンコシチが彼らに暗殺の方法を指南した」と伝えた。さらにッポティレクは「暗殺はさらなる陰謀への序曲に過ぎない」としてセルビアへの武力行使を主張した。
サラエヴォ事件を受けてボスニアではムスリムとクロアチア人による反セルビア暴動が各地で発生し、多くのセルビア人が暴行を受け、商店が破壊された。議会は事件を非難する決議を行ったが、当局により間もなく閉会となり、ボスニアにおける議会による政治秩序はいったんの終局を迎える。
また、チャウシェヴィチはムスリムの暴動が帝国との関係を悪化させるものと捉え、7月2日にイスラムの諸制度を担う全官吏を代表して暗殺事件への弔いを表明し、セルビア人に対する暴力は控えるようムスリムに訴えた。そして25日には「私たちボスニアのムスリムは、オーストリア=ハンガリー君主国の強力な旗の下で生活しており、それは、あらゆる非イスラームの国家の中で、自らの文化的使命を適正かつ尊敬すべき形で果たした唯一の国家である。それ故私たちは、神と人間の方に確実に従い、その国家と共に悲しみや喜びを共有し、それと共に生き死んでいく義務があるのだ。」と演説した。このように、この段階においてもボスニア・ムスリムは帝国支配に順応した集団が多かった。
1914年7月23日には二重君主国は48時間の猶予付きで10ヶ条の最後通牒を送り付けた。その条文は以下のとおりである。
第1項:オーストリアに対する憎悪、軽蔑を助長し、領土の一体性を脅かす出版物の禁止。
第2項:「民族防衛団」やこれに類する団体の解散。
第3項:教育機関からの反オーストリア的な宣伝の排除。
第4項:反オーストリア活動に加わった軍人や官僚の罷免。
第5項:セルビア国内におけるオーストリアの領土保全を脅かす活動の取り締まりへのオー ストリア側の参加。
第6項:セルビア国内にいるサライェヴォ事件に関与した人物への司法捜査、ならびにその 捜査活動へのオーストリア側の参画。
第7項:初期捜査において共犯者と認定されたタンコシチ、チガノヴィチの逮捕。
第8項:国境を越えた武器、爆弾類の不正取引へのセルビア官吏の協力の阻止。また暗殺犯 たちの越境を幇助したシャバツ(Šabac)、ロジュニツァ (Ložnica)の国境警備隊員の解 雇と懲戒。
第9項:6月28日以降、国内外のセルビア公職者がおこなったオーストリアに対する敵対的 発言に関する釈明。
第10項:上記の諸措置の実施についてのオーストリア側への通知
これはつまりセルビアにおける反オーストリア活動の弾圧と暗殺事件の調査に二重君主国が参加することを要求したものであるが、セルビアはこれに対し大幅に譲歩、反オーストリア組織の弾圧と出版物の禁止、タンコシチ、チガノヴィチの逮捕に同意し、調査報告のオーストリアへの通知も同意した。
しかし二重君主国が直接調査に介入するのは主権の侵害とし拒否した。諸大国は戦争回避に奔走し、またセルビアでも交渉継続派が主力であったが、オーストリアでは主戦派が有力であり、7月28日には宣戦を布告、第一次世界大戦が始まった。
開戦以降、ボスニア・セルビア人は厳しい統制下に置かれた。彼らは帝国解体を目論むスパイであるとされ、5000人以上が強制収容所に収監され、その多くが虐待を受け、また餓死者も出た。軍事法廷では反逆罪、スパイ、利敵行為の口実で250人が処刑され、政治裁判では数百人が禁固刑を受けた。
一部ではもはや法的手続きを経ていない軍による残虐行為も行われ、当地のセルビア人は抑圧に苦しんだが、二重君主国は最終的に戦争に敗北。当地はセルビア人を王に戴くセルブ・クロアート・スロヴェーン王国に統合されることとなり、二重君主国それ自体の崩壊によって二重君主国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ統治は幕引きとなる。
逆にムスリムは、国境付近で戦闘が起きていた場所では逃亡や避難を試みる人々が見られた。ボスニアはセルビアとの国境部に属しているためこの混乱がボスニア全土に波及する可能性は高く、帝国当局にとって第一の課題は、戦時下におけるムスリムの指揮増強だった。
そこで二重君主国が注目したのは1914年11月14日のオスマン帝国のシェイヒュル・イスラームによる聖戦宣言だった。これらは主にフランスやロシアのムスリムを意識して呼び掛けられたものだった(実際セルビアのムスリムに二重君主国軍へつくよう宣伝していたことも確認されている)が、これは二重君主国によってボスニアへ波及することになる。
州総督ポティオレクは宣言翌日、蔵相ビリンスキにその旨とチャウシェヴィチを介しボスニアの全モスクにこの布告を掲げるべきだと訴えた。しかし、それはシェイヒュル・イスラームに対してボスニア・ムスリムへの介入を許すものだと在イスタンブル大使パッラヴィチーニは17日に共通外相を通じて反対し、23日にはポティオレクの提案はいったん取り下げられた。
しかし、12月2日にシェイヒュル・イスラームからチャウシェヴィチに全ムスリムが「生命と財産」をかけて連合国と戦うべきだという趣旨の書簡と聖戦の布告を送られると事態は急変した。彼はそれに従うべく11日の金曜日にサラエヴォ中心部ガジ・フスレヴベグ・モスクに全ムフティを集め宣伝活動に従事させたいと州政府へ伝えた。
州政府はこれを蔵相と外務省に伝え、自治法に基づく限りこれに抵抗する権限はないと主張した。外相ベルトヒルトは12月5日にこの事実と州政府の立場を在イスタンブル大使へ伝え、ポティオレクの主張を尊重した。こうして1914年12月11日金曜日、トルコ語とボスニア語でこれが読み上げられた。
第一次世界大戦下の対イスラーム統治について、ほかに特筆すべき事柄に1915年から始まるウィーン・モスク建設計画がある。元々ウィーン市長カール・ルエーガーがモスクの建設計画を立てていたが、1910年3月の彼の死によって建設委員会は指導者を失い急速に頓挫した。
これの建設費用は当初100万クローネと見積もられたのちインフレで2倍に跳ね上がったが、1921年の記録によれば敗戦時に集まっていた資金は25万クローネだったという。この計画について1918年7月12日、共通軍事省はボスニア・ムスリム兵に対し次のような声明を発した。
・現在ウィーンにモスクを建設する計画が浮かび上がっており、その実現のためにウィーン市民と高位の官公吏たちが力を合わせていること。
・このモスク建設はムスリムの兵士たちの、この聖戦における勇敢さ、そして国家への忠誠を認めてのものであること。
・陛下(皇帝のカール 1 世のことを指す)はムスリムの兵士たちに信頼を置いており、陛下及びその崇高な同盟者であるスルタン゠カリフ陛下の敵に対してムスリムの兵士たちが、誓約に忠実に、常に死を恐れずに戦っていることを陛下は知っていること。
・このモスクはオーストリア・ハンガリーのムスリムたちにとって、陛下の他の臣民とこの戦争をともに戦うこの偉大な時代の永遠の記念碑となるであろうということ。
ここで注目に値するのは「スルタン=カリフ陛下」と記されている点で、この時点ではカーライ時代のオスマンからボスニアを分離する政策から転換が起きオスマン皇帝への帰属意識の尊重をある種明確化している点である。
これは開戦に伴い1914年11月14日オスマン帝国のシェイヒュル・イスラームによるジハード宣言が行われ、これをレイスル・ウレマーが各地のモスクなどに公表したことなどがそのきっかけであると思われる。
しかし、徴兵の進行によって労働力が不足し、農業生産が著しく減少したため1917年には餓死者が出はじめた。2月に皇帝カールの命に従い両国首相、ボスニア総督が委員となる共通食料委員会が設立されたが、もはや事態は解決不可能な段階へ到達していた。このような情勢下で、ほかの諸邦でそうであったように二重君主国の国制再編に関する議論も進んでいた。
ワクフ委員会委員長シェリフ・アルナウトヴィチは、17年8月にブリアーンを訪れた際にボスニアが中世に王国を建国し、オスマン征服後も独自の州を構成してきた歴史を取り上げて二重君主国内で領域的な自治を要求した。
一方でチャウシェヴィチはユーゴスラヴィア委員会に接近し、コロシェツがサラエヴォを訪れた際には「望むままに行動してください。私は、私たちの民衆に自由をもたらすあらゆる行動に賛同する。私たちの政府もトルコもドイツももうたくさんだ」と述べた。この背景には、当局がだんだんとイスラムの教義的義務とフィットしない政策をとり始めたことがある。
二重君主国の崩壊と新国家におけるムスリム
1918年9月、連合国軍がギリシャから攻勢をかけ、10月19日にドナウ川に到達。11月1日にはベオグラードを解放し、二重君主国の大戦における敗北は決定的なものとなった。結果10月6日にオーストリア議会の73人のメンバーがスロベニア・クロアチア・セルビア人民族会議を結成し、独立国家の建設を目指した。
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16日にはカールによる帝国連邦化宣言が行われたが民族会議はこれを拒否、10月29日に正式に帝国から離脱した。アドリア海沿岸の未回収領地(イレデンタ)を狙うイタリアへの対抗上この国家はすぐにセルビア王国へ参加した。
この間のムスリムは、全く民族会議などの多勢力に振り回されていた。チャウシェヴィチ、バシャギチらが民族会議への賛同を示し、民族会議の代理機関としてボスニアに政府が設置された。
しかしこの政府の成員はセルビア人6人、クロアチア人4人間の娯楽、ムスリム1人で構成されており、ムスリムのプレゼンスは低いといわざるを得ないものだった。セルビア軍がサラエヴォに来た時ムスリムはこれを歓迎したが、王国の成立後はセルビア人によるムスリム暴行事件が頻発し、政治面でも国王独裁によってムスリムの権利は制限された。
脚注
①…理解の相違の軸はモンテネグロ、セルビアの取り分で、墺側は両国の取り分を国境調整のための一地域のみと理解していたが、露側はセルビアにボスニアの大部分を与え、オーストリアが領有するのはボスニアの一部のみと理解していた(76年7月28日にはセルビア政府はボスニア・セルビアの合併を宣言している)(書籍5)。
参考文献
論文
1.ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合とエーレンタール 近藤信市 東欧史研究1985 年 8 巻 p. 97-118
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12.<研究ノート>ハプスブルク帝国下ボスニアにおけるイスラーム統治とその反応 : レイス・ウル・ウレマー職をめぐって 米岡大輔 史林2011年 94巻2号 p.323-341
13.オーストリア=ハンガリー二重君主国による「最後通牒」(1914年7月23日)再考 : F. ヴィースナーの『覚書』にみる開戦決断の背景 村上亮 境界研究2017年7巻 p.1-24
書籍
1.ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章 (第7,8章)柴宜弘、山崎信一編著 明石書店 2019 p388
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3.「民族自決」という幻影 (第3章、米岡大輔) 大津留厚編著 昭和堂 2020 p326
4.ケンブリッジ版ユーゴスラヴィア史 (第5章)スティーヴン・クリソルド著 田中一生、高田敏明、柴宜弘訳 恒文社 1993 357p
5.ハプスブルクの「植民地」統治―ボスニア支配にみる王朝帝国の諸相 村上亮 多賀出版 2017 p294