昭和は遠く 夏の日の土埃

 戦後十五年ぐらい経った頃だ。あの頃は、どこもかしこも雨の後は、水溜まりができた。逆に晴れた日が続けば土埃が舞っていた。土が身近だったし、女達は下駄履きやサンダルでそこを歩いていた。路地には、黒板張りの家が並んでいた。むき出しの土の庭に据えられた物干しは木と竹だ。そんな家々の並ぶ辺りはどこからも子供の声がする。ドブにはネズミが住み、定期的に町内会がネズミの駆除薬や消毒液を配っていた。
 土が身近だった風景は、アルバムや当時の映画を見なければ、思い出すことができない。今の生活に慣れた身にとっては、記憶の彼方の光景だ。
その町は、山が海に迫るわずかな平地を、鉄道と道路が貫く旧街道の宿場町だった。町の西端から東端までの海岸線は約五キロ。そして、海岸から水平距離二キロに、七百メートルの高さの山がそびえている。扇状の平地は、山から海に流れ、町の中央で海に注ぐ急峻な二本の川、山入川と白沢川の堆積物によって形成された。街の扇状地の大半を形成したのが山入川だが、その山入川でさえ長さ五キロ弱、流域面積十七平方キロでしかなかった。山入川から西に五はメートルほど離れて白井沢川が流れているが、こちらは当時存在した西と東の小学校区の境だった。二本の川は、街道沿いの住人の生業を反映していた。
 東隣の町との境界は、街道沿いに民家が建ち並び、目をこらしてやっと見つけられるちょろちょろと流れる小川だった。そこから百メートルも西に歩けば宿場の東側の入り口を示す枡形跡があった。宿場には本陣跡や幕府転覆を企てた人物の生家と称する町屋があるが、東の枡形から五百メートルも歩けば、西の枡形跡にたどり着く。西の枡形の先が山入川で、山入川から白沢川までは、五百メートルほどだが、旧街道沿いに民家や商店が並び、旧街道に併行して山側を通る新道と呼ばれた国道との間に缶詰会社や、役場、小学校などがあった。
 小学校学区の境界である白井沢川に架かる橋のあたりから魚の臭いが充満してくる。顔を上げれば、町の西端にそびえる峠がそそり立っている。街道沿いには民家や商家隙間無く建ち並んでいるが、漁業関係者が多く住んでいた。白井沢川と鉄道駅との間に漁港があり、鉄殿駅は海に突き出た峠の手前にあった。峠は中世の古戦場ともなり、また浮世絵にも描かれている峠だが、そこが西隣の町との境だった。
 鉄道開業時の反対運動の故か、東隣の町の駅との間隔からか、旧宿場から離れた町の西端に近くの鉄道駅だが、その先の海に迫る峠が町を塞いでいた。峠の崖下の線路と国道は、台風が来る度に波に洗われた。
町の産業は、漁業と山肌に植えたみかん、そしてそれらに関連した缶詰等の食品加工業だった。小学校は三つ、中学は一つ。東小学校、西小学校、北小学校と名付けられていた。東西の小学校区の境界である白井沢川から東は会社員、みかん農家等が多く、西は漁業関係者が多かった。
 平地が少ないため、人々は、旧街道や新道と呼ばれる国道から山に向かって血管のように枝分かれしている道沿いにわずかな平地を見つけて住居を建て、山肌にはみかんを植えた。近くの港町や県都に通う勤め人の家もあれば、漁師の二男、三男のバラックのような家もあった。人口密度は高かったが、およそ生産性は低かったが、それでもその土地にしがみついていた。それはこの町に限らず、日本の至る所がそうであったように、生きる糧の存在するところには誰かが住み着いていた。
 海辺から山への枝道中で最長の道は、山入川に沿った道だった。その上流には北小学校との名前のついた小学校がある集落があり、その先はやっと車一台が通り抜けられる険しい山道だった。もちろん当時は未舗装だった。その山道の分水嶺を越えると、二県を貫いて流れるこれも急峻な大きな川に面した集落に出る。生まれたのは、この集落だった。そこから五歳で海辺の町へ出てきたのだが、引っ越すときは二県をまたいで流れる大きな川沿いに下流に向かいそこから海岸沿いの国道を使ったはずだ。だから、しばらくは、山の向こうが生まれた場所であることを知らず、視界の三方向に入る山々を見上げては、その向こうに何があるのか、人は住んでいるのかと思いをめぐらせた。
 この町で五歳から小学校卒業までの七年間を過ごしたが、遊び場所は海より川が多かった。町に引っ越した頃はまだ浜辺が残っていたが、波は高く、急深な上、海辺に出るのは、線路とその外側の堤防を越えなければならなかったから、幼児が出かける場所ではなかった。荒波が打ち寄せる砂利の多い海浜を背景にしたアルバム写真はわずかで、テトラポッドに埋められた海岸を背景にした方が多く残っている。なぜなら、その町に移り住んですぐにオリンピックに向けての新幹線建設の工事が始まった。新幹線は、わずかに山入川と白井沢川をはさむ辺りで地上に現れるが、両端はトンネルだ。トンネル残土は、海岸を埋め立てるため使用され、高速道路になるはずだった。
山向こうの集落から小学校入学の一年前にその町に移り住み、いきなり幼稚園に放り込まれた。まわりは地元の子ばかりだった。彼らは物心ついた時からお互いを見知っていた。幼児の世界は、同じ学齢でも早く生まれた方が、二月、三月生まれより体力、知力が発達し、上に立つ。私の方は、二月生まれで体も知能も劣っていた。前に住んでいた村の遊び仲間は、近所の同じ年の子一人だけだった。
 幼稚園の同じ組の女の子が、自身の身長と同じ高さのゴム跳びをし、縄跳びの回転する縄の中に上手に入っていくのをただ見るだけで気後れした。同じ学齢の男の子に対してはなおさらだった。缶蹴り、メンコ、さらにはワンバン野球など、まずルールがわからなかった。彼らは遠い存在であり、彼等にとっては何でもない冷やかしさえ怖く、同じ内向的な性格の子と一緒にいた。外で同年齢の子供達が走り回って遊んでいる時、教室で過ごすか、外に出ても片隅で土団子を作ったりしていた。その頃、友達といえる唯一の存在が耕司であり、幼稚園から小学校低学年の頃までの遊び相手だった。
 国道とそれに併行する旧街道以外は未舗装で、そこを新幹線工事のダンプカーが黄色い砂埃を上げて疾走していた。幼稚園、保育園に通う子も、その砂埃、ダンプカー、夏の日差しも気にせずに出かけた。親もそれを気にしなかった。家の中が好きだったが、父親は家の中で遊んでいるのを嫌がった。外に出ても大勢の子供の中では気後れして、誰かと外で遊ぶ時は耕司だった。内向的であることを嫌う父親から、外で遊べと言いつけられて仕方なく出かけるときは、耕司と一緒であろうが、一人きりであろうが、山入川か白沢川に行くことが多かった。川原で遊び、喉が渇けば土手を這い上がり。トンネル残土を海岸まで運ぶダンプカーが行き交う道路脇の駄菓子屋で、大事にポケットに入れておいた十円玉でアイスキャンディやジュースを買うのも楽しみの一つだった。
 耕司の家は、旧宿場町からは外れ、山入川と白沢川との間の、旧街道沿いに商家や漁業関係者が軒を連ねる中にあった。どの家も同じような作りで、玄関の引き戸を開けるとそのまま土間が裏口まで続いている。土間の片側は障子で仕切られた畳部屋が二間ぐらい。奥は台所で裏口があり、裏口は線路沿いの草の生えた小道に面している。線路は海から堤防で守られていた。もっとも、堤防の先に浜辺を見た記憶はわずかだ。山が海にせり出した町の西端は列島を横断する地殻構造帯に起因する地滑り地帯であり、地滑り防止のための排土と新幹線トンネル工事の排土とで海岸を埋め立て、高速道路を作る工事が始まっていたからだ。そんな土木工事のダンプの巻き上げる砂埃の記憶は、小学校入学後から新幹線の開通後の高速道路完成まで続いた。
 初夏の休日、「外で友達と遊べ」と父に言われ、耕司の家に遊びに行った。年の離れた弟はまだ幼児で、集団で遊ぶのが苦手だった私が遊び相手として頼れるのは耕司しかいなかった。「こうちゃんいる」と玄関で声をかけると居合わせた耕司の母親が、もんぺ姿に首タオルで迎えてくれた。これから働きに出るようだったが、にこやかに迎えてくれた。
 二人して、かつて通った幼稚園近くの白沢川に向かった。町の東西二つの小学校の学区の境界のその川は、缶詰工場の廃液で白く濁り生臭かった。しかい、急峻な扇状地にぽつんと立つ小高い山を迂回するあたりまでさかのぼれば水面にはアメンボが滑っていた。川辺の草むらにはメダカとオタマジャクシが見えた。探検気分だった。小高い山の頂上には尼寺があり、夜になると太鼓の音がし、不気味で不思議な山だったから、その山の麓の川縁に踏み入れること自体が冒険だった。流路三キロ未満の小川でもその町では二番目に長い川。大きな魚がいるような気がし、川縁の草むらで耕司の家にあった破れたタモを振ってみたが、何もかからなかった。そのうち川をせき止めるように石を投げ入れるなどして水の流れてと戯れているだけで時間が過ぎていった。
 暑さに喉が渇き、川から登ると梺の広場には忠霊塔があり、その周辺の未舗装の道を新幹線工事や高速道路工事のダンプが走り抜けていた。埃を巻き上げるダンプを避けながら道を下ると旧街道に対して新道と呼ばれていた国道に出た。新道沿いに家はまばらでミカン畑の間に駄菓子屋があった。 
 半ズボンのポケットにはお小遣いの十円玉があった。十円で、冷えたジュースやアイスキャンディが買えた。店に入ろうとしたが、耕司は一瞥しただけで先に進み、仕方なくその後を追った。町屋が軒を連ねる旧街道の耕司の家にたどり着き、暗く湿った奧の台所へ向かった。家に入る前から感じてはいたが、あらためて耕司の体の臭いを意識した。それが汗の臭いだったと知ったのは、小学校の高学年になってからだった。
 街道沿いの小路の家あたりは漁業関係者が多い影響か、駄菓子屋にあったかき氷用の氷を入れる、金庫の扉のような開け口の着いた冷蔵庫があった。耕司は冷蔵庫を開けた。冷蔵庫には一升瓶に入った水があり、その一本を私に渡し、自ら手本を示してラッパ飲みした。一息入れると、低い男の声がし、誰かが入ってくる気配がした。
 その声で耕司は慌て、裏口から外にせき立てた。裏口は小道をはさんで線路に面していた。線路の赤い採石とレールが四本。レールの頂部はピカピカで、夏の日の光を反射していた。レールの上に釘を置き。皿の耳を当てて列車の近づく音を聞き、音が大きくなると一目散に線路脇の草むらに隠れる。そんな遊びを子供会の高学年の子達がするのは知っていた。そして、その子達が、学校では教師から、子供会では世話役の大人から、体罰を加えられての叱責を受けたのも見ていた。
 耕司が先頭に立って、線路を渡り堤防の上に立った。わずかな距離に漁港があり、そこに行けば落ちている魚の切れ端や小エビを釣り針につけて垂らせば草河豚が釣れた。草河豚は釣り上げると腹を膨らませるが、それを岸壁にたたきつけて破裂させて遊んでいる誰かがいるはずだった。そこへ耕司をさっそったが、耕司はそっぽを向き、堤防の外を埋め始めたテトラポッドに向かった。かつてそこは砂利が多い浜辺だったが、新幹線用トンネル工事の排土で埋め、その外側に護岸のテトラポッドが並べられ始めていた。その区間の高速道路が開通したのは、私がその町を去ってからだった。海岸に並べられ始めたテトラポッドの上を飛び渡るスリル満点の遊びだった。テトラポッドの合間には波が入り込み、運が良いとカニを見つけることができた。

 低学年の頃までは、誰かに一番の友達は誰だと聞かれれば「耕司君」と答えていたはずの耕司だが、彼に直接話しかけた最後の記憶は九歳か十歳の頃、授業で教師に親の職業を尋ねられた時だ。耕司の番が来ると、耕司はもじもじしていた。隣の席だった私は、「耕ちゃんの番だよ」とせかした。すると耕司は小さな声で恥ずかしそうに「土方している」と答えた。その時、耕司が恥ずかしがる理由がわからなかった。

 性格が変わり始めたのは。小学校の後半、高学年になろうとしていた頃だ。山向こうの村で生まれた私を、その頃から知っている男性教師が小学校に赴任し、私の担任となった。父の友人で、終戦時は予科練の生徒だった担任は、私に自信をつけさせよう、いろんなことを体験させたてくれた。体も知能も四月生まれに追いつき、逆転し始めた。気がつけば、持久走、マラソン大会では。それまで勝てたことのない四月、五月生まれの子供より速くゴールに入賞し、成績も上向いてきた。
 さらに自転車を買ってもらい、行動範囲は広くなり、知らず知らずのうちに、友達も増え、いつの間にか耕司と遊ぶことは無くなった。小学校委の高学年は、時の流れがもっとも長く感じられた歳月だった。富士山山麓の湖での夏のキャンプと冬のスケート。これらは小学校の行事であり、教師やPTAが側にいた。五人の子供達だけで自転車に乗り、山入川の上流の源流近くまで出かけた。その源流脇に一緒に出かけた同級生の家族が所有する作業小屋があった。作業小屋の前のテントを張ってそこに泊まり、子供達だけで飯ごうで米を炊き、持参したマグロのフレーク缶詰とともに源流で突いた魚、掘り出したタマネギのようなヤマユリの根をたき火で焼いて食べた。夜は両側の山の合間に広がる満天の星を眺めながら、家では決して話題にできないようなことを話し、いつの間にか眠りに落ちていた。
 数人で電車に乗って県都に行き、商店街をあちこち歩き回った。ゲンームセンターに立ち寄り、学生服とセーラー服の男女がボーリングのようなゲームに興じるのをまぶしく見た思い出がよみがえってきた。もっとも、翌日、なぜか県都の商店街を歩き回り、ゲームセンターに入ったことを担任が知っていて、酷く叱られた。
 旧宿場の側の小高い丘の上の神社の秋祭り。渾名をバク豆と渾名された吉岡ともう一人よく自転車で遊び回った市川と、三人で神社の境内を見下ろせる大木に登り、枝に腰掛けて盆踊りを見下ろした。浴衣を着た同級生が踊っていたが、他の二人の目も彼女に注がれていることに気がついた。
 小学校の後半は、自分にとって人生でもっとも輝いていた時代だが、その頃から耕司と一緒に過ごした記憶、会話した記憶は欠落している。その頃の思い出で後ろめたいものがある。小学校六年の時、耕司の父親が亡くなり、クラスで珍しく耕司のことが話題になった。耕司の父親のあだ名が「万歳のまっちゃん」であり、その由来は若い頃役者を夢見て線路を歩いて上京。途中列車にはねられそうになった時、レールの間に万歳の格好をして身を伏せたからだとおもしろがる級友達の中に私もいた。耕司の父親の葬儀を級友達と見に行ったが、葬儀に参列するためではなく、ただ野次馬的に冷やかし半分だった。黒の着物を着た母親に続いて位牌を持った耕司と妹がいた。級友達は冷やかしの言葉を投げつけたかも知れない。
 幼稚園から小学校低学年まであれほど一緒に過ごした耕司。幼稚園の頃の耕司の弁当に麦が混じっていたこと。遠足で町を見下ろす高い山に登った時、一緒に昼を食べたが、耕司のおにぎりの大きかったこと等、低学年までの記憶は断片的に思い出されるのに、高学年以降の耕司の記憶は、彼の父親の葬儀を除いて無い。同じ四十人のクラスの中で一緒に過ごしたはずなのに。弱かった自分が、いじめはやし立てる側になっていたのだろう。
 その町を離れたのは、小学校卒業と同時だった。その後の人生にあまり良い思い出はない。中学、高校、そして大学、さらに就職してからもその町のことは、なにかある度に思い出した。中学はその土地になじめず、高校は受験一辺倒、大学はそれなりに自由を謳歌したが、それでも小学校の高学年、特に最後の年ほど密度が濃かった日々はない。だから、なにかある度にその町のことは思い出した。

大学を卒業した時代は、高度経済成長が終わり、鉛色の時代に突入していた。大学同学年で研究者となった女性が、所属する大学の自己紹介で、「元祖就職氷河期」と記したが、戦後の勢いが一度息切れした頃だった。就職先は、小資本の鉄工所だったが、それなりに満足し、ある種の使命感のようなものもあった。しかし、数年経つと、不満を覚えるようになった。変化のない日々と将来への不安だった。
 二度転職し、三度目の勤務先で自身に対する評価も得、将来の見通しも立った。それは、一度息切れしていた戦後の経済が息を吹き返し、海外からもおだてられ、最後の繁栄、狂乱にさしかかろうとした時期だった。もっとも、幸か不幸か、三度目の勤め先は上げ底された騒ぎとは無関係の職種で、狂乱は他人事だった。
 結婚したのは、狂乱が終わりかけ、元号が変わる直前だった。そして、娘が生まれたが、私は三十代半ばに達していた。初秋の出張帰りの日曜日、小学校時代を過ごした町に向かった。娘が生まれ、その子のこれからの幼年時代、小学生時代をともに過ごすに当たって、自身の過去の黄金時代とでも言うべき、その町に行き、記憶を新にしたいと思ったからだ。
 直前にたまたま読んだ旧街道の各宿場町を紹介したガイドブックには、眠ったような町と記されていた。駅を降り背後に海に迫る峠と夕日を背にして、木造のしもた屋風の家が建ち並ぶ街道を宿場があった方に向かった。漁港の入り口を通り過ぎ、かつては東と西の小学校学区の境界である白沢川の橋を渡る。山入川より小さい川で遊んだのは、幼稚園から小学のも低学年の頃で、相手は耕司だけだったことを思い出す。川の橋の袂にあった缶詰工場は、全国展開し、テレビでコマーシャルを流すほどになっていた。缶詰工場の廃液処理が行われるようになったからだろうが、工場下流の川の水はきれいになり、魚臭さも消えていた。橋を渡りながら、ふと耕司のことを思い出した。記憶にある耕司の家のあたりを通ったが、同じような家が並んでいてどこが耕司の家かわからなかった。夕暮れも近く、急ぎ足で旧街道から枝分かれして、山の方に向かう道にはいった。道の狭さに改めて驚いた、ちょっとした坂道を登り切った場所が小学校があった場所だ。こんなにわずかな距離だったか、こんなに道は狭かったかと、驚いた。校庭は住宅地となり、二棟の校舎と池のある中庭があったあたりは、町民会館や図書館が立っていた。周辺の地区民がこぞって誘致した小学校、町の豪農や有力者が寄付した国旗掲揚台や藤棚も跡形もなくなっていた。私がその小学校を卒業し、町を離れた直後、東西に分かれていた小学校は統合された。卒業校は無くなってしまったのだ。
 昔住んでいた家に行ってみた。東西を結ぶ国道から枝分かれし、山の方に向かう道からさらに路地の間の先にある家だ。玄関の両脇に夾竹桃と観音竹。間取りが思い出される。玄関の左右には廊下があり、板敷きの台所、左には子供部屋として使っていた4畳半。4畳半と廊下を挟んで二間続きの和室。和室縁側があり、縁側から手を伸ばせばマサキの植え込み。家で遊ぶのが多かった幼少のころは家の中からカタツムリを捕ったりもした。
 その家の台所から明かりが漏れ、人の気配がした。昔の家がまだ残っていたことに安心し、日が暮れていることも有り、駅に引き返した。自宅に戻ったら、娘に出張土産の人形を渡し、翌日からの会社での予定を確認しなければと思いながら、町の地酒を買い、海岸風景を見ながら電車の中で飲んだ。

 弟は、それから二年後に海外で事故死した。母親は弟の死から三年後に脳内出血で意識不明のままの寝たきりとなり、九年後に無くなった。父親は平成の年号が終わる四年前に亡くなった。その町で一緒に過ごしていた家族はだれもいなくなった。
 仕方なく子供のため、離婚せずにいたが、下の息子も大学に入った。実家に帰省し、亡くなった父親の遺品を整理していて、小学校時代の父兄の住所録が出てきた。
 その住所録には、当時の同級生の全員の住所や親の職業が記載されていた。電話番号が記載されているのは、十軒も無く、洋品店などの商家がほとんどだった。その頃電話はまだ普及していなかったのだ。なぜか耕司のことを思い出し、気になった。小学校の私の性格を変えてくれた先生と年賀状のやり取りはしていたので、小学校高学年の仲の良かった同級生の消息は先生の方から教えてくれた。だが、耕司のことは先生からの便りには書かれていなかった。
 梅雨の頃だった。先ず当時のPTAの住所録に記載されていた住所を便りに耕司の住んでいた家に向かった。記憶にある通り旧街道沿いに軒を並べる家々の一軒だった。木造で黒ずんだ家は昔のままだったが、玄関の引き戸には真新しい材木が打ち付けられ、出入りできないようになっていた。表札は無かった。
 昔の小学校の跡地に行った。私の卒業と同時に、東西二つの小学校は統合され、通っていた小学校の跡地に公民館が建てられた。その公民館の図書室で、統合前の最後の思い出として小学校の全生徒が書いて発行された冊子を見つけた。それは、私も持っていたはずだが、その存在を忘れていた。小学一年生だった弟の文章、六年生だった私の文章、そして耕司の書いたこんな文章も見つけた。

 五年の初め先生が変わった。仲良しのどの部へ入るか楽しみだった。僕は図書部に入ることに決めた。他の部は何かむかないような気がしたからだ。もうひとつは、市川さんがはいったせいかもしれない。まもなく部活動が始まった。部の先生は二人。この二人の先生に、本の整理の仕方、ラベルの貼り方、書き方、ポケットの張り方ブックカードの作り方などを教えてもらった。部の活動が楽しみだ。
 五年の夏休みが来てバスに乗って湖のキャンプに行った。仲良しの部がグループだ。グループの名はフジバト。キャンプに行く時、母が病気なので不安になって出かける。飯ごうでご飯をたくのがおもしろかった。そして食器を洗う湖の水は冷たかった。 キャンプが終わって家に帰る。母がむかえにきた。元気な顔を見てほっとした。
 二学期三学期も図書部に入った。市川さんも同じだ。先ぱい達が卒業した。
 六年になっても図書部に入った。市川さんもまたなった。図書部の先生も変わった。まもなく新しい顔合わせができた。
 六年でもキャンプが楽しみだったが、思いがけないことに父が死んだ。行く気がしなくてやめた。
 二学期、また新しい顔合わせ。三年生の時の同級生、敬一くんがはいった。僕はうれしくて仲良しの時間が楽しい。敬ちゃんや市川さんとラベル、ブックカードを張ったり書いたりした、この思い出を残す学校、この学校、このままだといいな。

「仲良し」とは、当時のその小学校の委員会活動、課外部活動の呼び名で、耕司が属した図書部の他に、放送部や園芸部、飼育部、美化部等があった覚えがある。市川君は、設立された町立保育園の園長として赴任した母親に連れられ、小学校四年の時に転校してきた。母親と二人で保育園に住み込んでいた。その保育園には弟も通っていたので、保育園の片隅の市川君の住居にも遊びにも行ったし、陽気な市川君と一緒に自転車を乗り回し、隣町まで遠征したりした。市川君の家になぜ父親がいないのかを疑問には思ったが、尋ねはしなかった。
 市川君は私の親しい友人の一人だったが、耕司が慕っていたことは文集を読んで初めて知った。市川君も私と同じく小学校卒業と同時に母親と共に町を離れた。母から聞いた市川君のその後の進学先に、耕司が慕った理由がわかる気がした。まだ当時はあまり知られていなかった福祉学部だった。
 敬一の渾名はガン豆だった。敬一の姓は、耕司の姓と同じく吉岡。その町に吉岡姓は多く、同級生の半分近くは吉岡姓だった。敬一君のいとこで教育学部の付属中学に入った同じクラスの女生徒も姓は吉岡。敬一も女生徒も、両親は地元の銀行に勤めていた。女生徒は北陸の国立大の医学部を出てそのまま医学生同士結婚して北陸で開業。
 文集を読んで初めて耕司が夏のキャンプに来なかったことを知った。同級生でありながら。そして文集には写真がそえられていた。六年の時のキャンプの集合写真の他に何枚かの数人の生徒を写した写真もあった。その中の一枚に私はいた。湖での水泳の後だろう、裸で五人で肩を組んでいる。肩を組んでいるのは、市川君、私、正秀、健太に信夫。正秀は喧嘩が強く、渾名は番長。健太は幼稚園の頃からの正秀の子分のような存在で正秀とは従兄弟同士。信夫は野球が上手いので高校は私立の野球強豪校に進学したが性格はおとなしかった。
 市川はともかく、正秀も健太も信夫も、幼稚園や小学校低学年の頃は、仰ぎ見るような存在だったが、マラソン大会やサッカーでは彼等に追いついていた。ふと、正秀も健太も姓は吉岡で耕司と同じだったことを思い出した。
公民館を出た私は先ず、耕司の作文の中にあったガン豆こと敬一の家のあったあたりに向かった。
 缶詰工場近くのそこには二階建ての、テレビでコマーシャルを流しているハウスメーカーと直ぐわかる小綺麗な家が建っていた。表札は吉岡敬一だった。それを確かめると、次に市川君が母親とともに住み込み生活を送っていた幼稚園に向かった。そこはほぼ昔のままだった。園庭横の、高速道路を作るため埋め立てられ、泳げなくなった海岸の代わりに作られた二十五メートルのプールもそのままだった。プールができたのは小学校五年の時だが、それがテレビのニュース番組で放映され、その中でカッパとも渾名された市川が笑顔で映っていた。それを学校で冷やかされ、市川が泣きながら冷やかした相手、健太に組み付いていたのも思い出した。三十五歳の誕生日の三日後にアフリカで無くなった弟の写真に、園庭のジャングルジムの頂上に腰掛けてあたりを睥睨している写真があったが、ジャングルジムもそのままだった。
 日が暮れかけていた。最後に昔住んでいた家に向かった。以前来たときには誰かが住んでいたが、もはや空き家のようだった。思い切って玄関の引き戸を開けて中へ入る。家の中には家財道具が放置されていた。土足のまま玄関から部屋の中に上がるのには抵抗感はあった。畳の上を土足で歩き、居心地の悪い柔らかさに罪悪感のようなものを観じた。
 かつて弟と過ごした玄関脇の部屋は、やはり子供部屋として使われていたらしく、ベッドと勉強机が置かれていた。娘一人らしかったが、勉強机の上の写真や表彰状などから、昔からある私立高校と短大に入学し、その間にアメリカに短期留学したらしいことがわかった。
 土足で奧の畳み部屋に進む。床の間には大型のブラウン管テレビが放置され、その隣には額に入れた表彰状が掲げられていた。表彰状は、その家の主人のPTA活動への貢献を表彰したものだった。
日が暮れ、もう照明無しでは、中に居られなくなり、家を辞した。玄関脇のあじさいがしおれていた。

 父親や恩師が性格を変えてくれたおかげで、私は会社社会でも生き抜くことができた。
会社員生活を完全の辞め、年金生活者となったのは、元号が令和に変わってからだ。退職して気付かされたのは、如何に自分に友と呼べる人がいないかということだ。肩を組むような友は小学校の時だけだった。
 退職後、その町を訪れた。梅雨寒だった。駅を降りるとあじさいを見つけた。あじさいはなぜかこの町に移り住んだ頃の記憶として残っている。耕司が文集の中で慕っていた敬一の家に行くとこぎれいな二階建て住宅があり、表札には「吉岡敬一」の文字があった。だが木造家屋が軒を連ねる旧街道沿い、耕司の家があった場所は、コンビニエンスストアとなっていた。さらにかつて住んでいた借家があった場所へ行ってみると、缶詰会社の駐車場になっていた
 町のどこもかしこも舗装されていた。小学生時代に歩いた道をたどり、町を貫く山入川の川原に立った。河川敷にはテニスコートが整備されていた。
川の流れを見つめながら、実家は取り壊して土地は売り、実家近くにある墓も整理し、両親と弟の遺骨は樹木葬として土に返すことに決めた。
 妻とも離婚し、一人になった。あれこれと現在や将来を心配する対象もなく、もちろん夢や希望はない。ただ時が流れていくだけだが、あと何年、生きることになるのだろうか。
                                 了

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