昭和は遠く 川辺で

 その町は山が海に迫るわずかな平地を鉄道と道路が貫く旧宿場町だった。扇状の平地は山から海に流れ出る急峻な二本の川の堆積物によって形成された。旧宿場の西端を流れる川がその町の平地の大部分を形成したのだが、その川でさえ長さ五キロ弱、流域面積十七平方キロでしかなかった。その川から五百メートルほど西の漁業関係者が多く住む辺りを流れる川は、長さ二キロ半、流域面積四平方キロ弱だが、西と東の小学校区の境界だった。

 川からさらに西に進むと漁港に鉄道駅。駅の先、町の西端は難所で知られる峠で、しばしば台風の高波が海岸端の国道と線路を洗った。

 海岸から水平距離二キロの位置に高さ七〇〇メートルの山がそびえる町の産業は、漁業と山肌に植えたみかん、そしてそれらに関連した缶詰等の食品加工業だった。

 この町で五歳から小学校卒業までの七年間を過ごしたが、山々を見上げては、その向こうに何があるのか、人は住んでいるのかと思いをめぐらせた。

 遊び場所は海より川が多かった。海は、新幹線トンネル掘削の残土で海岸を埋め立て、高速道路を建設する工事が始まっていた。国道以外の道は舗装されておらず、そこを行き交う新幹線工事のトラックが黄色い砂埃を上げていた。その砂埃の中、町を貫く二本の川のどちらかに遊びに行き、遊び疲れると近くの駄菓子屋で握りしめた十円玉でアイスキャンディやジュースを買うのが楽しみだった。人工甘味料がふんだんに使われていたが。

 町の名が冠せられた流路五キロの川の上流には切り通しで隔てられた集落があり、そこはもう一つの小学校区だった。切り通しの下流で川は崖に遮られて湾曲し、湾曲の内側には、川面から隆起した小高い台地があった。そこには一軒の小さな家が建ち、その家へは、上流の集落へのバスが通る崖下の街道から小道がつながっていた。小さいながらもどこか洋風で、町の商家、漁師、農家のどれとも異なる、絵本に出てくるような家だった。

 そこが、無理矢理通わされたピアノの先生の家だった。その家の立つ台地を守る堤防はなく、川面と台地の間にはわずかな砂利の川原があり、対岸は崖だった。二十代の先生は、母親と二人でその小さな家で暮らしていた。

 戦後二十年が間近となった頃の田舎町。ピアノを習う子供達はいたが、男子は私だけだった。先生の名前は島絵里子。瀟洒な小さな家の玄関を入ると板の間に、ピアノと長椅子があり、椅子には自分の番を待つ女の子達がおとなしく並んでいた。半ズボン姿でピアノのレッスンを受けるため先生の隣に座ると、スカートの上からの太ももやふくらはぎを覆うストッキングの肌触りを感じた。うなじに見とれ、指の動きが止まると、鍵盤の上の手の甲を軽く叩かれた。

 先生の近くにいるとそれまで感じたことのない奇妙な気持ちになった。その一方で、おかっぱ頭の女の子達の中にいるのは居心地が悪く、学校での冷やかしの種にもなった。

 先生は、平日は県都の音楽教室で働き、川縁の自宅でのピアノ教室は日曜日だった。私が通い始めて半年ぐらい経った頃から若い男がレッスン待ちの子供達を押しのけて長椅子に腰掛けるようになった。男は、ピアノのレッスンを受けるのではなく、ただ島先生の背中を見つめているだけだった。

 扇状地を横切る国道近くの自宅から、切り通しの手前の先生の家まで緩やかな上り坂。子供の足で二十分ぐらい。先生の家の手前に川をまたぐ橋があり、そこから先生の家が見えた。教則本が進むにつれ、指使いも難しくなり、ぎこちない演奏を、おかっぱ頭の女の子達の前ですることが耐えられなくなってきた。いつしか橋の近くで川原に降り、拾った木切れを少年漫画にあった敵艦に見立て、それに向かっての砲撃のつもりで石を投げた。あるいは、ダム建設を思い描いて石を積み上げたりして一人遊んだ。

「島先生、結婚するらしい。でもね、相手は、変な人らしいの。普通のお勤めしている人ではないみたい。なんであんな人なのかしら」

 私の母が洋裁を教える生徒だった。母が代用教員をした時手に入れたオルガンを見て、ピアノ教師の島先生を紹介したのは彼女だった。母は、

「島先生のお母様も苦労したのに。せっかく育てたお嬢さんがねえ。島先生、素敵すぎて、かえってこの町のまともな人たちは、気後れしてしまうのね」

 私がピアノ教室をさぼって、川で遊んでいることを知ったのか、母は私の音楽的才能に見切りをつけてくれた。

 ピアノの練習から解放された年の初夏、友達と蛍を捕りに出かけたのは、島先生の家の近くだった。家のどの窓も明るかった。

 夏休みになった。島先生の家の少し下流をせき止めて、子供達のための水泳場が作られる。先生のうなじを思い出し、泳ぎの行き帰りに川縁の小さな家をうかがったが、ピアノの音は聞こえなくなっていた。夕方になると台所辺りから物音がするだけだった

 町を離れたのは、小学校卒業と同時だった。中学、高校、そして大学、さらに就職してからもその町のことは、なにかある度に思い出したが、訪ねることはできなかった。

 高度経済成長が終わり、就職難の鉛色の時代に大学を卒業した。三度目の転職後、年号が平成となった年に結婚し、子供もできた。しかし結婚相手とは感情的な行き違いがあり、打ち解けることができず夫婦生活に行き詰まった。

 母も亡くなり、離婚も考えた時、その町に出かけた。いつの間にか埃と水溜まりだらけだった道も当然のように舗装されていた。しかし、新幹線と高速道路が通過するだけの町は時代に取り残され、道が舗装された以外は昔とあまり変わりなかった。かつて住んだ家はまだ残り、表札や洗濯物もあった。そこを訪れた後、自然と足は島先生の家に向かっていた。川に架かる橋から先生の家が見えた。オルガンの「この橋の上であの子を見たのは」が聞こえた気がした。それが空耳だったのか、近くの幼稚園からの旋律だったのか、今は定かでは無い。

 島先生の家の前に立った。表札は昔のまま、戦線の母親の「島たか乃」だったが、聞き覚えのある練習曲が聞こえ、終わると先生の声と子供の声が聞こえ、ほっとした。

 私の結婚生活は相変わらずだったが、離婚もせず子供も大学生となった頃、出張帰りにその町を訪ねた。平成の大合併で町は県都に吸収されていたが、街並みは昔の面影を残していた。しかし、かつての住居は缶詰会社の駐車場になっていた。そこから向かった島先生の家。年代を経て古くなった小さい家の玄関脇には雑草が生えていた。ピアノの音は聞こえてこなかった。かつて石遊びをした家の裏手の川原に降りようとすると、そこには膝を折って川の流れをじっと見つめている女性がいた。髪に白いものが混じっていた。

 帰りがけ立ち寄った小学校は跡形もなかった。PTAが寄付した藤棚、鉄棒、国旗掲揚台等の設備が誇らし語られた小学校はかなり前に統合され、廃校となっていた。校舎のあった場所は公民館、校庭は住宅地だった。

 さらにそれから十年後、また年号が変わった。これまでもただ漠然と生きてきただけだし、さらにこの先も何も期待されることなく、ただ消えるだけと実感した退職の年だった。私は町を訪れた。狭隘地故に缶詰会社以外に工場も無く、依然として町は昔の面影が多く残っていた。まっ先に訪れたのは島先生の家だ。だが、川にせり出した台地にあった小さな島先生の家は、土台だけしかなかった。

 かつて住んでいた辺りに戻った。辺りは夕日で赤くなっていた。振り返ると、遠足で登り、校歌にも歌われた山に日が沈むところだった。

 夕日は、島先生の家にも続くなだらかな坂道も照らしていた。そこには、五十年以上前の、県都に出かける途中、坂の上から私を見つけ、手を振る島先生の姿があった。


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