言われ続けたことば
なんでいつも何でも自分1人でやろうとするの?
今まで何度も言われてきた言葉だ。
でも若い頃は何回そう問われても、自分ではそうしてしまっていることに気付かないので曖昧に笑ってみたり、「そう…なんかなぁ…?」と返事とは言えないようなチカラのない言葉を小さく呟いてやり過ごしてきた。
だけど、このたった数行の会話に、ワタシはいつもいたたまれない気持ちになった。
勇気を出して声をかけてくれた人たちの困ったような戸惑いの表情を見るたびに、責められているような気分でいっぱいになる自分を、ただ眺めているような気分だった。
ある時、友人から同じ問いを違う言葉で伝えられた事があった。
「あんたってほんと不器用よね。」
そう言って、彼女は大好きなビールをぐびぐびと飲みほして満足そうな顔を私に向けた。その顔を見た瞬間、ワタシは何も考えず気が付けば彼女に聞いていた。
「例えばどういうとき?ワタシが不器用って思うところって。」
そこからあとは、小学校の道徳の授業のような時間になって、友人はとても疲れた顔をしていたけれど、ワタシには大事な転換点となった。
私は人に頼ることをいけないことだと思っていて、頼られた方も困るはずだと思い込んでいる自分を知ったのだ。
でもそうじゃなかった。近内悠太さんの『世界は贈与でできている』の中にこう書いてあった。
贈与の受取の拒否。
それは何を意味するかというと、関係性の拒否です。つまり「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」という宣言となります。
まさにワタシは、このことを理解していなかったのだ。
自分で抱えきれないことは誰かに聞いてもらうだけでも、その人のプレゼントを受け取ることで、次の誰かの為の自分でいることが新たなプレゼントとなるということを。
でも、嬉しい発見をしたあとも、気になって仕方がないことがあった。
なぜワタシは、他人を頼ることができなかったのか?
同著書『「毒親」に悩んだ心理学者』の中で、贈与の呪いについて分析している一節がある。
分析では毒親が母親だったが、私の場合の毒親は父親で、母はそれを見て見ぬ振りをしていた。
そんな家族の中で子供時代を過ごしてきたワタシは、何でも自分でやらなければ認められず、助けてもらうことは許されない環境にいたことにようやく最近になって気づき、今回近内さんの著書で再認識したところだ。
今回のキナリ読書フェスをきっかけに、ワタシはずいぶん長い間、自分が悲しみの中で過ごしてきたことを直視できず、ここまで過ごしてきたんだということを知ることができた。今はまだ、こうやって書いていても涙があふれてくるけれど、自分を癒す自信が出てきことも書いておきます。
岸田さん、近内さん、関係者の皆さん、素晴らしいフェスをありがとう。