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資生堂書体はどこから生まれ、どこへ向かうのか -2020年7月18日

 (大学のとある授業で、日本のデザインの変遷について学んだ)
 私は今回、日本のデザイン界を今も昔もリードしている資生堂のデザインを中心に、日本のデザインが与えた影響と、これからのデザインにどんな影響を与えるかを考えた。

 

 資生堂の意匠部(現在の宣伝・デザイン部)は1916年に設置された。その頃の日本ではデザインという言葉は浸透しておらず、エンジニアが製品のデザインまで行う時代だったことを考えると、資生堂がいかに早くデザインの重要性を見抜いていたかが分かる。実際、第二次世界大戦後に工業製品の輸出で世界と競うには、デザイン性が必要不可欠だった。

 資生堂意匠部のデザイナーたちは、西洋を意識しながらも独自のデザインを模索していた。例えば矢部季がデザインしたポスターは、西洋を意識したアール・ヌーボー風だが、日本独自の四季を意識したものになっている。そして、小村雪岱がこの時生み出したのが、かの「資生堂書体」だった。

 「資生堂書体」とは、優美な曲線が西洋のアール・ヌーボーを思わせるが、とめ・はらいという日本人独特の意識も感じさせるフォントである。現在も手書きで受け継がれているこのフォントに、私は日本のデザイン界隈に大きな影響を与え、またこれからも与え続ける秘密を感じた。西洋を意識しながらも、そのまま真似をするのではなく、日本風土・文化の独自の美しさを追求する姿勢である。デザインとは、あるいはものを美しくするという価値はどういうものなのか、という真摯な思考が生み出した姿勢ではないだろうか。

 一方で、西洋に追いつこうと必死だった日本の多くの企業は、自国がまた西洋に与えた影響にもっと目を向けるべきだったと思う。例えば、モネは日本の浮世絵に影響を受け、着物を着た女性を描いた「ラ・ジャポネーズ」(1876年)を制作しており、アール・ヌーボーがそもそも日本の浮世絵に影響を受けて発展したものであったことからも、決して日本の芸術が西洋に比べて劣っていた訳では無かったはずだ。だからこそ、日本の独自性を大事にしたデザインの発展が、もう少し早く始まっていても良かったと思う。

 それまでは「化粧」程度に思われていたデザインがようやく日本で重要視され始めたのは、資生堂意匠部が設置されてからおよそ30年後の1950年代からであった。1951年に欧米を視察して帰国した、パナソニック社長の松下幸之助が「これからはデザインの時代やで」と宣言した通り、製品とデザインは分けて考えられるようになり今に至る。おそらく松下は、これからの製品は技術だけでは戦えないとアメリカに行って痛感したのだろう。

 いち早く製品に「意匠」という分野を確立した資生堂の功績と、企業が目指した姿勢を素晴らしく思うと同時に、「資生堂書体」が体現するこれからのデザインのあり方を再度認識する。西洋のデザインに刺激を受けつつも、自国の持つ伝統的な風土や文化、美意識を踏まえて独自で発展していくデザインの形であり、単に真似をするのではなく、双方の良い点を活かしたデザインの重要性が再度問われている。特に、2021年は東京オリンピックという日本のデザイナーにとっての国際的なビッグプロジェクトが控えており、日本のデザインを世界にアピールする絶好のチャンスが用意されている。日本のデザインが世界に与える影響に注目が集まるだろう。今一度、日本のデザインのあり方について考えたい機会であり、今に受け継がれる「資生堂フォント」の持つ普遍的な美しさに宿る日本のデザイン精神を見習いたいところである。

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